石橋湛山

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石橋 湛山
いしばし たんざん
生年月日 1884年9月25日
生誕地 東京府東京市芝区芝二本榎(現港区
出身地 東京都
没年月日 1973年4月25日(満88歳没)
出身校 早稲田大学
職業 政治家
政党 日本自由党民主自由党
自由党分党派自由党
自由党日本民主党
自由民主党
政治活動 第55代内閣総理大臣
第50代大蔵大臣
第12-14代 通商産業大臣
第9代郵政大臣
配偶者 石橋うめ
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石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年9月25日 - 1973年4月25日)は、日本ジャーナリスト及び政治家である。戦前はジャーナリストが弾圧される中で植民地放棄などの主張をし、反戦を訴えた。政治家としては第五十五代内閣総理大臣などを歴任した。

幼年期から学生期[編集]

湛山は1884年9月25日に東京に生まれた。父親は日蓮宗僧侶の杉田湛誓。1885年に湛誓が郷里の山梨県南巨摩郡増穂村(現・富士川町)に在る昌福寺の住職へ転じたことで、母親と共に甲府市稲門(現・甲府市伊勢2丁目)へと移住した。

1889年に、甲府市立稲門尋常小学校入学する。1891年に初めて父と同居し、増穂村の小学校に転校した。しかし、1894年に湛誓が今度は静岡市にある日蓮宗本山青龍山本覚寺の住職になったことで、山梨県中巨摩郡鏡中条村(現・南アルプス市)に在る長遠寺 の住職望月日顕に預けられて、再び親子離れ離れになることになった。

1895年には山梨県立尋常中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)に入学した。回想録において湛山はそこで出会った、札幌農学校(現・北海道大学)においてウィリアム・スミス・クラークの教えを受けた校長・大島正健の教育方針には感動を覚えたと語る。ただ、同期生と二歳離れていたこともあったのか、二度落第しており、卒業したのは1902年だった。

卒業後、第一高等学校(現・東京大学教養学部)を受験するために上京するも1902年7月の試験は、不合格となってしまう。翌年の再度受験も不合格となり、早稲田大学高等予科の編入試験を受けて合格して9月に入学する。

ジャーナリストへ[編集]

早稲田大学文学部を主席で卒業して、宗教研究科で勉強する。その後、1908年12月に、 島村抱月の紹介で当時東京毎日新聞を発行していた毎日新聞社[注 1]に入社した。しかし、翌年には退社する。

退社後、兵役(最終的な階級は陸軍少尉)を経て東洋経済新報社に入社。1913年に「カリフォルニア州排日土地法」が成立してアメリカで日本移民排斥問題が起きた際には、世論からアメリカ開戦論が起きるなどの状況の中、この問題は感情の問題であるから両者が冷静に対処するべきと、雑誌「新報」の社説で語った。

第一次世界大戦、対支21ケ条要求においては世論や他の報道機関が日本の膨張主義を支持する中、一貫して植民地領有に反対して、植民地はすべて放棄して、他国と平等な関係になるべきだとして「小日本主義」を主張。日本の青島領有などを非難した。

シベリア出兵問題においても当初から反対した。これは後に世論からも政府に批判が浴びせられ、1922年に撤退に追い込まれた。

第二次世界大戦中にも一貫して反戦、植民地放棄、世界協調を唱えたため、石橋が社長を務める『東洋経済新報』は政府・内務省から監視対象にされてインクや紙の配給を大きく制限された。このため、経営悪化に苦しんだが廃刊になることはなかった。

政治家[編集]

総裁就任まで[編集]

戦後すぐに日本社会党からも総選挙出馬を誘われたが、鳩山一郎と知り合いだったこともあり1946年に日本自由党から総選挙に出馬した。このときは落選したが、第1次吉田内閣において大蔵大臣として入閣し、落選しながらも大臣に就任することになった。大蔵大臣就任後にはデフレーションを制える為のインフレーションを進める石橋財政を行うも、当時はGHQなどからインフレ財政として酷評された。

大蔵大臣就任時には主に戦時補償特別措置法による戦時補償債務打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍経費問題にあたった。進駐軍経費問題では進駐軍の経費が国家予算の三分の一におよぶ膨大な額で削減をGHQに要求、GHQの反感を買った。1947年の第23回衆議院議員総選挙で静岡2区でトップ当選したが、公職追放令が発動されてGHQによって公職追放された。この決定には石橋自身も驚いていた。その後、1951年6月に追放解除後を受けて、鳩山派として対吉田路線になっていく。

吉田内閣が倒れた1954年に第1次鳩山内閣で通商産業大臣に就任した。本人は大蔵大臣を望んでいたが、政治状況の兼ね合いもありかなわなかった。また、冷戦下のなかで社会主義国である中華人民共和国ソビエト連邦との国交回復を主張し、日中ソ貿易推進を訴えるも、資本主義国であるアメリカが猛反発した。1955年11月、日中輸出入組合の設立、上海の日本商品見本市を支援し中国との貿易が軌道に乗せた。

総裁[編集]

1956年10月19日に日ソ共同宣言をしたのち、鳩山首相が引退。実質初の総裁選が行われることになる。このときの本命は岸信介だった。実際、一回目の投票では岸211票、石橋151票、石井137票だった。しかし、一回目の投票ではいずれも過半数には達せず、決選投票において2位となった石井光次郎と手を組み、石橋は257表を獲得して、7票差で当選し、第二代自民党総裁となる。

第55代内閣総理大臣に就任したが、内閣のポスト調整が難航。後に首相となる岸を外務大臣、池田隼人を大蔵大臣にした。しかし、脳梗塞に倒れて2ヵ月の絶対安静が必要との医師の診断を受けると、石橋は予算審議に応じることができなくなったことを受けて、自ら退陣した。石橋の首相在任期間は65日で、東久邇宮稔彦王羽田孜に次ぐ歴代で3番目の短さとなった。 かつて石橋は、狙撃されて議会に出席できなくなった濱口雄幸首相に対して退陣を迫ったことがあったが、自ら主張したことを潔く貫き通したと言える。弁護士の正木ひろしなどは軽率な行為で体調を崩したとしてこれを批判しているものの、世論や他の議員などからは大方好意的に受け止められている。総理大臣としての職務を十分に行うことができない状況に追い込まれる中で、自ら潔く退陣するのがいいのかどうかは意見が分かれるところではある。

総裁退陣後[編集]

退陣後、石橋は政治活動を行えるまでに回復した。1958年の第二十八回衆議院選挙にも当選。岸がアメリカ寄りの政策を進める中、石橋は資本主義国だけでなく、社会主義国である国とも交流を持つべきだという考えから1959年9月に中華人民共和国を訪問。周恩来首相と会談した。そこで「石橋・周恩来共同声明」を発表した。

1963年にも「北京・上海日本工業展覧会」総裁に就任し、中国を訪問。この展覧会は成功し、周恩来とも二者会談を行った。

その後も少数派閥の石橋派の領袖として自民党の中で影響力を保ちながら、岸が主導した日米安保条約改定の採決の際には欠席するなど岸とは対決姿勢を示した。

当初は出馬予定のなかった1963年の第三十回総選挙では落選し、政界を引退することになった。

政界引退後[編集]

1964年9月にはソ連を訪問した。しかし、具体的な成果は得られなかった。その後も政治活動は積極的に行い、その後も世界平和の思想を持ち続けながら、1973年4月25日に、88歳で亡くなった。

経歴[編集]

  • 1884年
9月25日 - 東京市麻布区芝二本榎(現・東京都港区)に生まれる。
  • 1911年
1月 - 東洋経済新報社に入社。
  • 1946年
5月 - 石橋にとって初の大臣となる第1次吉田内閣の大蔵大臣に就任。
  • 1956年
12月 - 自由民主党第2代総裁になる。内閣総理大臣指名。
  • 1957年
2月 - 脳梗塞により自由民主党総裁と総理大臣を辞任。
  • 1973年
4月25日 - 死去。享年88歳。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

[編集]

  1. 現在の毎日新聞社とは系譜が異なる。