渋沢栄一
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渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、明治時代から大正時代にかけての企業家。「道徳経済合一説」を説く。生涯に約500の企業の設立・経営に関わる[1]。土屋喬雄は「日本資本主義の父」と名づける[2]。2024年から1万円札の肖像に使用される[3]。日本経済の近代化における最大の功労者であり、第一国立銀行など約500社に及ぶ企業の設立にも関与したことでも知られている。
経歴[編集]
- 天保11年2月13日(1840年3月16日)、岡部藩領の武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)の豪農の家に生まれる。父は渋沢市郎右衛門、母はえい。郎畔門米・麦・養蚕に加え、商品作物の藍玉を扱う。渋沢家は血洗島村開封当初からの家とされている[4]。幼名は「市三郎」。
- 1845年、「栄治郎」と改名した。その後は伯父渋沢誠室の命名で「栄一」と改め、通称を「栄一郎」とした(1865年ころまで)。号は「青淵」。
- 1847年(弘化4年)、栄一が書物を読み始めたのは6歳から7歳の頃とされる。最初は父から漢文の素読で『大学』『中庸』『論語』巻二まで習う[4]。その後、隣村・手計村在住・従兄の尾高惇忠から四書五経を学ぶ。
- 1851年頃、『通俗三国志』『南総里見八犬伝』を好んで読む。幼いころから従兄の渋沢新三郎[5]から神道無念流を学ぶ。正式に入門したのは1851年3月23日である。従兄・尾高長七郎らと上野国・下野国を回るなど剣道修業に熱心に取り組む。
- 1854年(安政元年)、このころから家業の畑作、養蚕、藍問屋業を手伝い、近隣の村を回り藍葉の買い付けを一人で行うようになる[6]。ほとんどの場合、信州・上州・武州秩父の得意先回りを栄一が担当した。
- 1857年頃、世の中の矛盾を感じ始め『日本外史』『十八史略』を読む[4]。
- 1858年(安政5年)12月7日、従妹の尾高ちよ(尾高惇忠の妹、当時17歳)と結婚する。18歳。渋沢栄一の父・渋沢市郎右衛門とちよの母は姉弟であった。
- 1861年(文久元年)、江戸の海保漁村塾・千葉栄次郎道場で学び、門下生となる。
- 1863年8月、長女宇田子(歌子)生まれる。同月、海保漁村塾に再入塾する。9月、江戸で一橋家用人の平岡円四郎と知り合う。
- 1864年(元治元年)、平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕え、一橋家家臣となる。
- 1865年、2月一橋家歩兵取立御用掛を命ぜられる。8月に一橋家財政充実の建言を行い、認められる。
- 1866年(慶応2年)、徳川慶喜の征夷大将軍就任に伴って渋沢栄一は幕臣となる。
- 1867年(慶応3年)1月、第15代将軍徳川慶喜の名代・徳川昭武に随行しパリ万国博覧会使節団の一員として渡仏し、ヨーロッパの思想・文化・社会を学ぶ。3月ナポレオン三世主催観劇会に陪席する。
- 1868年(明治元年)3月、明治政府から帰朝命令がありフランスより帰国、12月、静岡で徳川慶喜に面会する。静岡藩勘定組頭となる。
- 1869年(明治2年)1月、静岡藩に「商法会所」を設立し頭取となる。11月、評判を聞いた明治政府から招かれ仕官する。民部省租税正となる。源朝臣「栄一」と改名する。
- 1870年(明治3年)2月、次女の琴子生まれる。閏10月、官営富岡製糸場事務主任となる。
- 1871年(明治4年)、1月静岡藩に世緑返上願を提出。7月制度取調御用掛となる。廃藩置県に際し藩札の時価交換を準備する。12月紙幣頭兼任。『立会略則』発刊。銀行制度など近代日本の制度の枠組みを作る。
- 1872年(明治5年)2月、大蔵少輔事務取扱。大蔵省三等出仕。抄紙会社設立出願。4月、井上馨とともに太陽暦採用を建議する。
- 1873年(明治6年)、大蔵省を辞職。第一国立銀行開業・総監役。抄紙会社創立(後の王子製紙会社・取締役会長)。
- 1875年(明治8年)、第一国立銀行頭取。商法講習所創立。
- 1876年(明治9年)、東京会議所会頭。 東京府養育院事務長(後院長)。
- 1878年(明治11年)、東京商法会議所創立・会頭(後東京商業会議所・会頭)。
- 1882年(明治15年)7月、ちよ夫人コレラに罹患し死去。
- 1883年(明治16年)1月、伊藤かね子と再婚。3月、大阪紡績株式会社相談役。10月、東京商工会創立、11月会頭。
- 1885年(明治18年)、日本郵船会社創立(後に取締役)。東京養育院院長。東京瓦斯会社創立(創立委員長、後に取締役会長)。
- 1886年(明治19年)、「竜門社」創立。 東京電灯会社設立(後に委員)。11月、女子教育奨励会設立、評議員。三男武之助生まれる。
- 1887年(明治20年)、日本煉瓦製造会社創立・発起人(後に取締役会長)。帝国ホテル創立・発起人総代(後に取締役会長)。
- 1888年(明治21年)1月、札幌麦酒会社創立・発起人総代(後に取締役会長)。9月、東京女学館開校・会計監督(後館長)。11月、四男正雄生まれる。
- 1889年(明治22年)、東京石川島造船所創立・委員(後に取締役会長)。
- 1890年(明治23年)、貴族院議員に任ぜられる。
- 1891年(明治24年)、東京交換所創立・委員長。
- 1892年(明治25年)6月、東京貯蓄銀行創立・取締役(後に取締役会長)。
- 1895年(明治28年)、北越鉄道会社創立・監査役(後に相談役)。
- 1896年(明治29年)、日本精糖会社創立・取締役。第一国立銀行は第一銀行となる。引続き頭取。日本勧業銀行設立委員。
- 1897年(明治30年)、澁澤倉庫部開業(後に澁澤倉庫会社・発起人)。
- 1900年(明治33年)、日本興業銀行設立委員。 男爵となる。
- 1901年(明治34年)、日本女子大学校開校・会計監督。(後に校長)東京・飛鳥山邸を本邸とする。
- 1902年(明治35年)、兼子夫人同伴で欧米視察。セオドア・ルーズベルト大統領と会見。
- 1904年(明治37年)、風邪をこじらせ長期に静養。
- 1906年(明治39年)、東京電力会社創立・取締役。京阪電気鉄道会社創立・創立委員長(後に相談役)。
- 1907年(明治40年)、帝国劇場会社創立・創立委員長(後に取締役会長)。
- 1908年(明治41年)、アメリカ太平洋沿岸実業家一行招待。
- 1909年(明治42年)、多くの企業・団体の役員を辞任。渡米実業団を組織し団長として渡米。ウィリアム・タフト大統領と会見。
- 1910年(明治43年)、政府諮問機関の生産調査会創立・副会長。
- 1911年(明治44年)、勲一等に叙し瑞宝章を授与される。
- 1912年(大正元年)、ニューヨーク日本協会協賛会創立・名誉委員長。帰一協会成立。
- 1913年(大正2年)、日本結核予防協会創立・副会頭。(後会頭)日本実業協会創立・会長。
- 1916年(大正5年)、第一銀行の頭取等を辞め実業界を引退。日米関係委員会が発足・常務委員。
- 1917年(大正6年)、日米協会創立・名誉副会長。
- 1918年(大正7年)、渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』(竜門社)刊行。
- 1919年(大正8年)、協調会創立・副会長。
- 1924年(大正13年)、日仏会館開館・理事長。東京女学館・館長。
- 1926年(大正15年)、日本太平洋問題調査会創立・評議員会長。日本放送協会創立・顧問。
- 1928年(昭和3年)、日本航空輸送会社創立・創立委員長。日本女子高等商業学校発起人。
- 1930年(昭和5年)、海外植民学校顧問。
- 1931年(昭和6年)10月、腸疾患手術。11月10日、正二位。11月11日、死去。91歳没。谷中霊園に埋葬。「泰徳院殿仁智義譲青淵大居士」。
近代社会の思想[編集]
- 「官尊民卑」の打破、すなわち官僚主義の弊害を打破し、民中心の社会を作ることを主張し、実践していった。
- 商業は、一人一人が自己の利益を図るべきものではなくて、「全国の公益」を図ることを目的とすると喝破した。
人物[編集]
- 一橋仕官時代とフランスからの帰国後に一時酒を飲んだが、もともとあまり好きではなく、以後はまったく酒を飲んでいない。
- 性格は温和で起こるということがないという[7]。
- 尾崎行雄は渋沢を評して、頭が鋭く、勇気があった、親切心があった、事業の遂行力に富むとした。
- 趣味はあまりないが、「字を書くこと」[8](書)と漢詩制作は生涯の趣味であった。
- 飛鳥山は1877年に別荘地として4000坪を購入し、日本館、物、置門、塀、庭園などを整備した。1901年、増改築して本邸を移した。
渋沢が関係した主な企業・法人[編集]
渋沢栄一が、関わった企業等のうち主要なもの[9]。
- みずほ銀行 - 前身は第一国立銀行,日本勧業銀行
- 北海道拓殖銀行 - 設立委員。経営破綻後北洋銀行に事業譲渡。
- 東京海上日動火災保険 - 相談役、設立時株主
- 横浜正金銀行 - 現三菱UFJ銀行、株主の一人。子の渋沢敬三が入社。
- 王子製紙 - 母体となる「抄紙会社」を渋沢栄一が設立。
- 東日本旅客鉄道 - 前身の総武鉄道、水戸鉄道などの株主。
- 日本郵船
- 東京ガス
- 日本煉瓦製造
- 清水建設
- 日本経済新聞社
- 帝国ホテル
- 川崎重工
- 太平洋セメント
- サッポロビール
- アサヒビール
- 東宝
- 秩父鉄道
- 埼玉りそな銀行
- 東急 - 東急グループの持株会社。前身の「田園都市株式会社」を設立。
- 東京経済大学 - 大倉喜八郎と共に創立に関わる。
顕彰施設[編集]
系譜[編集]
- 孫
- 玄孫
- 渋澤健 - シブザワ・アンド・カンパニー代表取締役
脚注[編集]
- ↑ 渋沢栄一記念財団編(2012)『渋沢栄一を知る事典』東京堂出版、ISBN-10: 4490108249
- ↑ 土屋喬雄(1931)『渋沢栄一伝』改造社
- ↑ 紙幣20年ぶりに刷新へ 一万円札に渋沢栄一ら産経新聞、2019年4月9日
- ↑ a b c 渋沢栄一記念財団(2012)『渋沢栄一を知る事典』東京堂出版
- ↑ 父・渋沢市郎右衛門の兄宗助の息子
- ↑ 井上潤(2012)『渋沢栄一 近代日本社会の創造者』山川出版社、ISBN-10: 4634548852
- ↑ 渋沢栄一伝記資料刊行会(1955-1971)『渋沢栄一伝記資料』別館第八
- ↑ 渋沢栄一伝記資料刊行会(1955-1971)『渋沢栄一伝記資料』別館第五
- ↑ 掲載会社名・団体名リスト
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