浄円院

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浄円院(じょうえんいん、明暦元年(1655年) - 享保11年6月9日1726年7月8日))は、紀州藩の第2代藩主・徳川光貞側室で、江戸幕府の第8代将軍徳川吉宗の生母。俗名は由利(ゆり)、(もん)。お由利の方と一般的には言われた。

生涯[編集]

父は紀州藩士巨勢利清とされている(『幕府祚胤伝』『徳川幕府家譜』)。それに対して『柳営婦女伝』では「巨勢氏は元来、紀州巨勢村の百姓の由、力量ある人にて八百目の鍬にて一日七苗の田を耕し」とある。つまり、武家の娘か百姓の娘ということになる。ただし一説には巨勢氏の実娘ではなく養女であり、実は近江国医師の娘とする説がある。これによると彦根藩に仕える医師の娘だったが、寛文11年(1671年)に藩が禁止している着物を着たことから咎められ、彦根城下の伝馬町札の辻に晒された末に追放刑となり、京都にいた父の縁石である巨勢兵助に助けられたという。また、和歌山城下の大立寺に母親から預けられた女児が浄円院だったとする説があるなど、彼女の出自には多くの説がある。ただ、どの説にも共通して「巨勢氏」が出てくるので、巨勢氏という人物に関連する女性だったことは間違いないと思われる。

浄円院は美人で、和歌山城に奉公に上がるがその出自のため、湯殿のお半下(下女)として扱われた。あるとき、藩主の光貞が入浴していた際にその世話をしていたが、光貞が戯れに彼女に対して湯を浴びせると、彼女は自分も手桶の水を浴びせ返した。光貞は怒るどころかむしろその気丈さを気に入り、手をつけて妊娠させ、貞享元年10月21日1684年11月27日)に光貞にとって4男となる吉宗を産んでいる。しかし、母親の身分の低さと、4男であるため到底藩主の座は望めないことから、家臣の加納政直に預けられて養育された。

ところが宝永2年(1705年)、第3代藩主で長兄の徳川綱教、次いで隠居していた父の光貞、さらに第4代藩主を継承していた徳川頼職が相次いで死去してしまう。頼職には嗣子が無く、吉宗(当時は頼方)が養子となって第5代藩主に就任し、お由利の方は藩主生母になった。

さらに享保元年(1716年)に第7代将軍・徳川家継がわずか8歳で病死し、当然嗣子は無かったため、吉宗が第8代将軍に迎えられて江戸城に入り、お由利の方は将軍生母になった。

お由利の方は光貞の死後、落飾して浄円院と号していた。吉宗が将軍になると江戸城2の丸に迎えられるが、藩主や将軍の生母として政治関係に介入した形跡は全くない。吉宗は母を慕って孝養を尽くし、自ら母親の膳を運ぶほどだったという。吉宗に対しては常に「かつて(越前国で)3万石だった時のことを忘れるな」とだけ言って、将軍として驕ったりしないように諫めていたという。

そんな浄円院も1度だけ、政治に介入した話が『徳川実紀』に紹介されている。ある時、侍女の瀬川の子である市太郎が吉宗の勘気を触れて幽閉された。浄円院は市太郎を赦免するように求めるが、吉宗はなかなか聞かないので浄円院は何度も吉宗を諫めて、遂に赦免させたといわれている。

享保11年(1726年)6月、江戸城2の丸において死去した。享年72。戒名は浄円院殿禅台知鏡大姉。墓所は東京都台東区にある寛永寺

将軍の生母であるから、没後には当然官位が追贈されるのが通例であったが、浄円院は生前から官位を受けることを拒否しており、吉宗も母の遺志に従って母の追贈は受けなかったという。

浄円院が登場する作品[編集]