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山内盛豊
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山内 盛豊 やまうち もりとよ | |
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改名 | 猪助 |
名の由来 | |
性別 | 男性 |
時代 | 戦国時代 |
生年月日 | 明応9年(1500年) |
生誕地 | 丹波国・三宮城 |
没年月日 | 不詳 |
死没地 | 尾張国(場所は諸説あり) |
死因 | 戦死あるいは自害 |
墓所 | 愛知県一宮市の要法寺、あるいは黒田の法蓮寺 |
国籍 |
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職業 | 岩倉織田氏・家老 |
官位 | 但馬守 |
武器 | |
口癖 | |
名ゼリフ | |
配偶者 | 二宮一楽斎の娘・梶原氏(法秀尼) |
子供 | 左衛門大夫、十郎、一豊、康豊、米姫、通姫、合姫 |
親 | 父:山内久豊、母:二宮俊宗の娘 |
補足 | Wikipediaでは永正7年(1510年)生まれになっている。 |
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山内 盛豊(やまうち もりとよ)は、戦国時代の武将。岩倉織田氏(織田伊勢守家)の家老。尾張黒田城代。山内一豊の父。
略歴[編集]
父は山内久豊。母は二宮俊宗の娘。丹波三宮城で生まれたという[1]。
大永年間(1521年から1528年)に尾張の上4郡の守護代で岩倉城主の織田信安に仕えた。信安には信任されて家老に抜擢され、黒田城主に任命された[1]。
天文23年(1554年)、岩倉城下の神明生田神社の造営を行なった[1]。
弘治3年(1557年)7月12日、黒田城で就寝している際に織田信長の軍により夜襲され、長男の十郎が戦死し、自らは岩倉城に逃れたという。永禄元年(1558年)には主君の信安が嫡子の信賢と対立して追放されたことにより岩倉織田家は衰退。そして永禄2年(1559年)、この虚を信長に攻められて岩倉城は陥落し、盛豊は家老としての責任を痛感して自害したという。ただ、盛豊の死については永禄元年(1558年)の浮野の戦いで戦死したとも、十郎が戦死した信長の夜襲の際に共に戦死したとも言われており、この辺りが定かではない[1]。
盛豊の遺体は現在の愛知県一宮市の要法寺、あるいは黒田の法蓮寺に埋葬されたといわれており、法蓮寺の境内には盛豊と十郎の墓碑も現存している[1]。
山内家は3男の一豊が継承し、信長や豊臣秀吉、徳川家康に仕えて立身してゆくことになる。
演じた俳優[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ↑ 以下の位置に戻る: a b c d e 小和田「山内一豊のすべて」P211
参考文献[編集]