法秀院 (山内一豊母)

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが法秀院 (山内一豊母)の項目をおカタく解説しています。

法秀院(ほうしゅういん、? - 天正14年7月17日1586年8月31日?))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性山内盛豊の妻。山内一豊康豊の母である。

来歴[編集]

尾張国羽黒城主の梶原氏、あるいは二宮一楽斎(長門入道)の娘といわれる[1]。盛豊と結婚し、長男の山内左衛門大夫、次男の山内十郎、3男の山内一豊、4男の山内康豊、長女の通姫、次女の米姫、3女の合姫の4男3女を産んでいる。なお、1番上の通姫の生年は天文2年(1533年)なので、それ以前に盛豊と結婚していたことになる。

永禄年間に夫が不慮の死を遂げると、嫡子の一豊ら家族を連れて諸国を放浪し、天正年間初期には近江国宇賀野の長野家に身を寄せた。ここで一豊の妻となる見性院に裁縫を教えたといわれる。天正14年(1586年)7月17日に長野家において死去したとも、天正18年(1590年)に近江国長浜において死去したともいわれ、要法寺に葬られた。現在、長野家に位牌があり、宇賀野に法秀院の墓碑がある。また、高知市要法寺にも位牌がある[1][2]

法秀院を演じた人物[編集]

原作『功名が辻』では千代の母が法秀院であるが、大河ドラマでは史実通りに一豊の母となっている[3]

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b 小和田「山内一豊のすべて」P211
  2. 小和田「山内一豊のすべて」P212
  3. 木嵜正弘編『NHK大河ドラマストーリー 功名が辻 前編』日本放送出版協会、2006年、13頁。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]