宇都宮国綱
宇都宮 国綱(うつのみや くにつな、永禄11年(1568年) - 慶長12年11月22日(1608年1月9日))は下野国の戦国大名。大名としての宇都宮家最後の当主である。
略歴[編集]
父は宇都宮広綱。受領名は下野守。
天正6年(1578年)、小山台合戦における北条氏政との合戦で初陣を飾る。天正8年(1580年)に父の死去により家督を相続する。しかし相続時で13歳の少年であったため、重臣の芳賀高継を補佐役とした。
天正10年(1582年)に本能寺の変が起こって織田信長が死去し、それに伴う天正壬午の乱で徳川家康と北条氏直との間で同盟が成立すると、国綱は越後国の上杉景勝、さらに信長没後に中央を掌握した羽柴秀吉に通じて反後北条氏の活動を続けた。しかし、信長の死去による混乱に乗じた氏直の勢力拡大がさらに激しくなり、国綱は平城である宇都宮城は防衛に向いていないと判断して居城を山城の多気山城に移した。また補佐役の芳賀高継との間にも一時的に齟齬をきたして高継が後北条氏に接近する事態になっている。天正13年(1585年)、壬生義雄の壬生城や鹿沼城を佐竹義重と連合して攻める。これに対して氏直は宇都宮氏と那須氏・壬生氏の対立を利用して後者と手を結び、下野侵攻を開始する。国綱は強大な後北条氏に次第に押されていたが、この頃から中央や西国を掌握した秀吉が東国にも手を伸ばすようになったため、国綱は秀吉にいち早く通じて臣従し、那須資晴と争う。天正18年(1590年)の小田原征伐では秀吉側として参加して石田三成の指揮下に入り、佐竹義宣や結城晴朝と共に後北条氏の関東における支城を次々と攻略し、武蔵国忍城攻めにも参加して甲斐姫と戦っている。そのため、秀吉から所領安堵を受けて豊臣政権下の大名となった。
天正20年(1592年)からの文禄の役では増田長盛の指揮下に入り、釜山浦で城の普請を務めた。しかしこの朝鮮出兵は次第に日本軍が形勢不利となり、和睦の機運も高まったことから国綱は日本に帰国した。そして慶長2年(1597年)、秀吉の命令によって突如改易処分となり、所領を没収されて備前国岡山城主・宇喜多秀家に預けられる。この突然の処分は国綱の後継問題にあった。当時、若い国綱にはまだ継嗣が無く、継嗣に浅野長政の3男・浅野長重を迎えることが勧められていた。しかし国綱はまだ若いし、また国綱には弟がおり、その中で3弟の芳賀高武は自らが兄の養子になって家督を継承しようという野心があったことから、この長重の入嗣に反対していた。この継嗣問題が結果的に御家騒動、いわゆる宇都宮騒動に発展して面目をつぶされた形になった長政が秀吉に讒言して国綱は改易されたと見られている。また、宇都宮家の取次が増田長盛から浅野長政に代わったことと、その長政と対立関係にあった石田三成や増田長盛との争いに国綱が巻き込まれて改易に追い込まれた可能性もあるという。
所領を失った国綱は、秀吉の勘気を解いて大名として復帰するため、弟の高武と共に慶長の役では自ら進んで従軍し、小西行長の指揮下に入って全羅道の今順天城を攻めるなど活躍したが、朝鮮の義兵の抵抗にあって釜山経由で撤退を余儀なくされている。慶長3年(1598年)8月に秀吉が病死して国綱の旧領回復は幻に終わり、その後は諸国を流浪した。
慶長12年(1607年)、父同様に若くして死去した。40歳没。