宇都宮広綱

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宇都宮 広綱(うつのみや ひろつな、天文12年(1543年) - 天正8年(1580年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての下野国大名宇都宮氏21代当主。宇都宮尚綱の子。母は結城政朝の娘。幼名は伊勢寿丸。正室は佐竹義昭の娘・南呂院。子に宇都宮国綱結城朝勝芳賀高武

生涯[編集]

受領名は下野守。天文18年(1549年)に父の尚綱が那須高資の前に敗死した際、未だ幼年だった広綱は重臣の芳賀高定に助けられて宇都宮城を放棄し、芳賀氏居城である真岡城に逃れた。その後は高定の補佐を得て反抗を期し、那須高資が弟の那須資胤との間に確執があるのを見て、那須氏の一族である千本氏を誘引し、天文20年(1551年)に高胤を千本城に誘き出して謀殺し、父の仇をとっている。これに動揺した親那須派の芳賀高照も殺害すると、江戸忠通佐竹義昭らと通じて高照の死後に宇都宮城を占領していた壬生氏を攻撃して追い払い、尚綱の死から8年にして遂に宇都宮城主として復帰を遂げた。

以後は高定を自らの補佐役として執政させる。長尾景虎関東に進出して北条氏康を攻撃した際には、前者に通じて佐竹氏佐野氏小山氏らと協調して景虎に太刀を贈呈。永禄4年(1561年)の長尾景虎による小田原城攻撃にも参加した。しかし氏康の抵抗は激しく城を落とすことはできず、この際に広綱は佐竹義昭や小田氏治らと共に景虎に撤兵を進言。景虎はこれを受けて鎌倉に向かった。永禄6年(1563年)、北条氏康の圧力を受けて上杉輝虎から離反した小山秀綱祇園城を佐竹義昭と連携して落とす。永禄7年(1564年)には氏康に通じた小田氏治の小田城を攻めて勝利し、氏治を土浦城に敗走させた。

一時期、氏康に帰属した時期もあるが、永禄11年(1568年)の駿河侵攻甲相駿三国同盟が破綻し、武田信玄との対抗上から氏康が輝虎と越相同盟を締結すると、広綱は輝虎から離反して佐竹義重と同盟を結んで氏康となおも戦った。元亀3年(1572年)に北条氏政に帰属し自らに敵対した皆川俊宗を攻撃し、さらに佐竹義重と連合して多功原の戦いで北条氏政軍を破った。天正元年(1573年)の第3次関宿合戦では佐竹義重と協力して簗田氏を支援した。このように佐竹氏と連携しながら後北条氏の北関東進出に大いに抵抗している。

天正6年(1578年)には佐竹氏をはじめ、那須氏結城氏山川氏と連合して鬼怒川を挟んで後北条氏の軍勢と戦っている(小山台合戦)。しかし晩年は病床にあったとされ、天正8年(1580年)に38歳の若さで死去した。跡を子の国綱が継いだ。