大道寺盛昌
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大道寺 盛昌(だいどうじ もりまさ、延徳元年(1489年?)- 天文19年7月12日(1550年8月24日?))は、戦国時代の武将。後北条氏の家臣。
経歴[編集]
父は大道寺発専。官途は蔵人佐。受領名は駿河守。後北条家の宿老で、相模国鎌倉代官、武蔵国河越城代、河越衆寄親を歴任した[1]。
諱の盛昌は北条早雲の実名である伊勢盛時からの偏諱と見られている。早雲の死後は北条氏綱に仕え、史料上の初見は永正17年(1520年)2月の鎌倉の本覚寺に代官以外の諸役を賦課することを禁止することを認めていることであり、内容から鎌倉代官として出したものと思われ、以後は代官として政治を見ている。ただ、当初は鎌倉代官だけではなく、相模東郡の郡代の地位にあった可能性もあり、北条氏時が相模玉縄城主として同郡支配を管轄すると、その地位を氏時に譲ったものと思われる。氏時、そしてその死後は玉縄城主になった北条為昌の補佐を務めた[1][2]。
天文元年(1532年)5月から氏綱による鎌倉の鶴岡八幡宮造営では惣奉行を務めており、この事業を実質的に遂行している。天文11年(1542年)に為昌が死去すると、盛昌が河越城代、河越地域の支配を担当し、河越衆の在城指揮も担当した[2]。
史料上では天文19年(1550年)閏5月に鎌倉浄智寺に寺領を寄進しているというものが最後で、天文21年(1552年)4月からは息子の大道寺周勝が家督を相続して史料上で確認できるため、恐らく天文19年頃に死去したのではないかと思われる。忌日が7月12日であること、享年が62歳であることは確認でき[2]、Wikipediaの明応4年(1495年)- 弘治2年(1556年)という生没年は何を参考にしているのか全く不明である。