大坂藩
大坂藩(おおさかはん)とは、江戸時代前期に摂津国に存在した藩である。現在の大阪府大阪市中央区に存在した。藩庁は大坂城。藩主家は豊臣氏、奥平松平氏。
概要[編集]
石山戦争で織田信長に敗北するまで、大坂は石山本願寺の支配下にあった。天正8年(1580年)に石山本願寺は信長に屈服し、その2年後に信長も亡くなると、信長の後継者としての地位を確保した豊臣秀吉が大坂の地に大坂城を築城。ここが天下の政治を取り仕切る舞台となった。
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、次の天下人の座をめぐり豊臣家臣団が分裂。この主導権争いの中で台頭した五大老筆頭の徳川家康は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで石田三成ら敵対勢力を滅ぼし、さらに秀吉の後継者であった豊臣秀頼の所領を摂津国・河内国・和泉国に押し込めた。これにより、豊臣氏の所領は220万石から65万石に激減し、政権主宰者としての立場も失った。しかし政権を家康の江戸幕府に奪われながらも、なおも独立は維持していた。
慶長16年(1611年)、家康の度重なる圧力に遂に屈した豊臣秀頼は、上洛して家康に拝謁し、これにより徳川氏と豊臣氏の立場は形式的にも完全に逆転。豊臣氏は1大名家として家格は高いながらも幕藩体制下の外様大名として取り込まれることになる。しかも、この頃から親豊臣系の大名である浅野長政・浅野幸長・加藤清正・堀尾吉晴・前田利長・池田輝政らが次々と亡くなった。すると家康は慶長19年(1614年)に方広寺鐘銘問題を契機として秀頼に完全に服従する証として江戸に人質を差し出すか、大坂から他領に移封することを受け入れるかの条件を提示する。こうして豊臣・徳川両家は手切となり、同年冬から大坂冬の陣が開始される。幕府の大軍の前に一時は堅城・大坂城に籠城して持ちこたえて和議に持ち込むも、その和議により大坂城は丸裸となり、慶長20年(1615年)に再度大坂夏の陣が行なわれ、秀頼とその母・淀殿は自害し、豊臣氏は滅亡した。
戦後、大坂は軍事上・経済上において西国の要地であったことから、徳川氏の親族で重臣であった松平忠明が10万石で伊勢亀山藩から移封されて入部した。この忠明は家康の長女・亀姫を生母としているので、家康の外孫に当たる。しかしわずか4年後の元和5年(1619年)、徳川秀忠は忠明を大和国郡山藩に移封させ、以後大坂は幕府の天領として直接支配下に置き、大坂城代を置くことにした。こうして、大坂藩はわずか10年ほどで廃藩となった。
幕末の戊辰戦争期にも大坂城は戦いの舞台になるなど、その重要性は後年まで続いている。
歴代藩主[編集]
- 豊臣家
代 | 氏名 | 院号 | 官位 | 在職期間 | 享年 | 出身家 |
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1 | 秀頼 ひでより |
- | 正二位 右大臣 |
慶長5年 - 慶長20年 1600年 - 1615年 |
23 | 豊臣宗家 |
- 松平家(奥平松平家)
譜代 - 10万石
代 | 氏名 | 院号 | 官位 | 在職期間 | 享年 | 出身家 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 忠明 ただあきら |
天祥院 | 従五位下 下総守 |
慶長20年 - 元和5年 1615年 - 1619年 |
62 | 奥平家 |