エンペディアのウィキペディア化問題
エンペディアのウィキペディア化問題とは、ウィキペディア日本語版(以下「ウィキペディア」)に比べて自由度が高いはずのエンペディアが、徐々にウィキペディア化し出している問題のことを言う。
概要[編集]
エンペディアはウィキペディアと違って、自由度が高い。記事内にジョークを書くことも、独自研究を書くことも可能である。ウィキペディアでうるさく追及される「出典」についても、エンペディアで追及されることはほとんどない。記述の除去は慎重に!
一例として、「徳川慶喜は徳川斉昭の長男である」という初歩的な誤りが記述されたケースがあった。[1]これを他の利用者が指摘することを「エンペディアのウィキペディア化」というのであれば、エンペディアはたちまちどんな間違った記事でも書いてよいのだ、となってしまうであろう。
また、凶悪事件における加害者・被害者の実名を記事に書いてしまう例も多発している。これもプライバシーの点から問題視されて指摘されることが多くなっているが、これを「ウィキペディア化」と呼ぶのはお門違いであろう。
エンペディアは現在でも、ウィキペディアのように出典はうるさく求めておらず、自由度は非常に高い。ある程度、記事が正確ならば独自研究も許されている。しかし、一部の利用者がそれを誤って理解しており「ウィキペディア化」と呼んでいるだけの可能性が高いのである。
ウソペディアでは[編集]
ウソペディア内にあるエンペディアの解説記事では、「議論が長期化したり、ウィキペディアン顔負けの長文記事が立てられたりする」ことをもって、ウィキペディア化が進行していると解説しているが、まったくもって意味不明である。
議論が長期化するのは過疎ペディア全般の特徴であって、別に「ウィキペディア化」しているためではない。
また、記事が長ければ「ウィキペディア化」というのも意味不明である。じゃあ、「飯塚事件」の記事は「ウィキペディア的」なのだろうか。どう考えても、ウィキペディアでは受け入れられないタイプの長文記事である。重要なのは長さではなく中身であり、的を射た批判であるとは言い難い。
ちなみに、エンペディアは自由なサイトである以上、「ウィキペディア的な記事」も「ウィキペディア的でない記事」もすべて受け入れるのが望ましい、という立場も存在する(参照:Enpedia:エンペディアは何であってもよいか)。この立場に立てば、ウィキペディア的な記事がときおり存在することは、逆説的にエンペディアらしさの証である。すべての記事がウィキペディア的に統一されてしまえば、それはまさしく「ウィキペディア化」であるが、記事の一部にウィキペディア的なものが存在していることは、別にウィキペディア化ではなく、エンペディアの自由さの発露なのだといえる。...まぁ、こういう繊細な話はウソペディアンには理解できないと思われる。
脚注[編集]
- ↑ 「徳川慶喜」の過去版を参照のこと。実際には慶喜は七男であり、長男は慶篤。
関連項目[編集]
エンペディアンの私論 |