よみもの:バドエディ折々のことば

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
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バドエディ(BadEditor)が Enpedia について思うことを、徒然なるままに書き記します。

個別ページにまとめた私論[編集]

その「自由さ」は誰かの役に立っているか[編集]

Enpediaは(中略)信憑性や正確さよりもわかりやすさを重視した百科事典を目指し、2009年4月21日に設立されました。

—  Enpedia:エンペディアについて

Enpedia は、「筆者以外の誰か」にとっても有益となりうる情報を幅広く収集し、解説する「謎の百科事典もどき」です。

—  Enpedia:方針#目的

エンペディアは、狭い意味での「百科事典」という形式にとらわれず、自由な形式で解説することで、読者にとって分かりやすい役に立つ情報源になることを目指しています。

「自由に書いた結果、分かりやすい/役に立つ」から意味があるのであって、単に「自由である」だけでは意味がありません。「自由に書いた結果、分かりづらい/誤っている」記事は、エンペディアの理念に合っていません。にもかかわらず、単に「自由に書かれている」というだけの理由で、その文章を擁護・評価してしまうユーザーが少なからず存在しています。(しまいには「エンペディア性」というバズワードを振りかざします。私は、この中身のないフレーズが嫌いです。)

(余談ですが、一部の売れない地下芸人が「トガった結果、面白い」から評価されているのではなく、単に「トガっているだけ(面白さに繋がっていない)」で称賛されてしまっているのと、似たような気持ち悪さを感じます。)

ウィキペディアとエンペディアは方向性こそ違っているけれど、誰かの役に立つ百科事典を志していることは変わりません。高級フレンチを提供するか、駄菓子を提供するかという方向性の違いこそあるけれど、残飯や毒キノコを提供していいわけではないのです。

抽象的な話が続いたので、最後に具体例をいくつか出します。

手前味噌ではありますが、私の書いた「三越」という記事の「長い歴史を5行で解説!」は、百科事典という形式にとらわれないことで読者の分かりやすさに寄与した好例だと思います。また、「意外な物の名前」におけるクイズ形式の解説も、いい意味で百科事典らしさを捨てた解説記事といえるでしょう。

外部サイトの例を挙げると、「「分かりそう」で「分からない」でも「分かった」気になれるIT用語辞典」は正確さを捨てて分かりやすさを重視した好例だと思います。

正確ではないけど何となく分かる、用語の意味を「ざっくりと」理解するためのIT用語辞典です。専門外の方でも理解しやすいように、初心者が分かりやすい表現を使うように心がけています。

—  わわわIT用語辞典 - X(Twitter)プロフより

クオリティの低い加筆をめぐるトラブル[編集]

Enpedia で加筆する際は、ソースの提示は必須ではありませんし、うろ覚えで「こんなだっけ...」と書くことも許されます。それ自体はルール違反ではありません。ただ、あまりにもクオリティが低い場合、そのテーマに関心をもつ他のユーザーから苦情をもらう可能性は、当然あるでしょう。

たとえば、「怪人二十面相横溝正史の代表作である。」のように、初歩的な間違いをふくむ加筆を連発するユーザーがもしも居たならば、私はキレることでしょうが、それは「エンペディアのルールに違反しているから警告している」というよりも、「江戸川乱歩を愛する者の一人として怒っている」ということです。

この時、「ルールで禁止されていない以上、怒られる筋合いはない」などというのは、逆ギレの屁理屈というものです。Enpedia は「明文化されたルール」だけで回っているのではなく、こうした人と人との「感情の力学」で回っていくものだと思います。

記事の「改善」をめぐるアレコレ[編集]

私は「投稿の自由性」は広く認めるべきだと思っていますが、それに比較すれば「存続の自由性」はやや制限すべきだと考えています(それでも Wikipedia に比べれば、格段に緩いですが)。

例えば、うろ覚えやおふざけで適当に加筆しようと思えばしてもいいでしょうし、それ自体は何かルール違反として注意すべきものではないと思います。しかし、品質の低い内容であればいずれ除去/削除されるのは当然のことであり、永遠に残しておくべきかは別の話です。

別の視点から言い換えれば、「人」に対して注意・警告することには慎重であるべきだが、「記事」に対してはあまり遠慮せずに修正してよい、ということです。

「Wiki」というシステムは、誰にでも編集する自由があります。どういうわけか「Wiki は誰にでも編集する権利がある → だから、俺の編集が認められるべきである」という主張を大真面目にする人が時折いるのですが、論理破綻も甚だしい妄言です。Wiki は、誰にでも加筆する自由がある一方、誰にでも除去する自由があります。

品質の低い投稿を除去/改稿する行為は、たとえばニコニコ大百科やピクシブ百科事典などでも見られる当然の行為です。これを「エンペディアのウィキペディア化」と呼ぶのは、適切な比喩とはいえません。

自分が興味のないジャンルまで、無作為に品質を管理することはたしかに「自警」的であり、エンペディアで望まれる行為ではないと思います。しかし、自分が興味をもつジャンルの記事に、品質の低い投稿があれば除去/改稿しようと思うのは、至極当然のことです。

「品質が低い投稿」とはどのようなものか、一概に言うことはできません。

独自研究であったり、出典がなかったりという「だけ」で、品質が低いとみなすべきでないことは確かです(エンペディアにおいては)。しかし、この考えはいつのまにか「独自研究や無出典の記述はすべて受容すべきだ」という主張にすり替わってしまいがちです。むろん、おかしな話です。要するに、独自研究や無出典のなかにも、品質の高いものと低いものがあるということです。当たり前ですね。

品質の高い・低いをどう判断するかは、あるジャンルに興味関心をもつユーザー達の良識による、としかいえません。一般論としては「日本語が破綻しているもの」「本筋から大きくそれている蛇足」などは、除去/改稿されても文句はいえないでしょう。また、「出典がないこと」だけを理由に除去するのは望ましくありませんが、「その記述が明らかに誤っていることを示す、確固たる出典が提示されている」のであれば、除去するのは当然のことでしょう。

情報の信頼度の書き分け[編集]

Enpedia の記事には、確実なソースのある情報も、独自研究も、主観も、うわさの類も書くことが許されます。

出来ることならば「何が正確な情報で、何がうわさで、何が主観であるか」を整理して書き分けることが望ましいと思います。ただし「努力目標」であって「義務」とまではいえません。

......といっても、現在の Enpedia の記事はほとんどが内容不足であり、そんなことを考えるステップにはないのが実情ですが。

なお、様々な情報を「あえて」渾然一体に記述することで独特の魅力が生まれる可能性も......なくはないのでしょうが、そのやりかたで「読ませる」名文を書くには相当の筆力が必要であり、並大抵のユーザーが目指すべき方向性ではないと思います。

ユーザー名を記事本文に書く[編集]

独自研究的な内容を書くときに、ユーザー名を付記するのも一案です。

このアイデアは、2015年に rxy さんがすでにすでに提案しているものですが、現在のエンペディアでも未だに広まる兆しはありません。

最近(2023年)の実践例としては、はたぼーさんが執筆した「尼崎市立北図書館」「立花南生涯学習プラザ」、seronさんが執筆した「Microsoft Windows 12」などがあります。

読者はユーザー名を見ることで「この人の記述なら信頼できる」「この人なら話半分に読んでおこう」と判断をつけることができます。(もっとも、そういう読まれ方をするためには、エンペディアが今より有名になって名物執筆者に注目する文化が生まれなければなりませんが…。)執筆者側の「なんでも書きたい欲求」と、読者側の「情報を取捨選択しながら調べ物をしたいという欲求」を、両方ともほどよく満たすことができます。(参考:エンペディアは執筆者ファーストか?読者ファーストか? → エンペディア#存在価値

とはいえ、一個人の主張があまりにも強い・長い場合には「記事」ではなく「よみもの」に書いたほうが収まりがよい場面も多いでしょう。

記事は誰のものか[編集]

基本的には、「記事」は特定の誰かのものではありません。

ただ、芸術点を重視した記事(特殊な記事)については、ある程度まで、初版投稿者の意向が優先的に尊重されてよいと思っています。具体的には「トーク:日の丸」など。

安易な自己言及[編集]

安易な自己言及は、記事の発展性を削ぐので好きではありません。例えば、エンペディアの「小泉構文」の記事と、ニコニコ大百科の「進次郎構文」の記事のどちらが読み応えのある面白い記事かといえば、ぼくは後者のニコニコ大百科だと思います。

一時期は「韓国語」の記事が韓国語だけで書かれていて、日本語の説明がコメントアウトされていましたが、そんな狭小なこだわりに何の面白さも感じないのでコメントアウト解除しました(差分)。

自己言及は最初だけにして、後半は普通の解説にする(いわゆる恋するフォーチュンクッキー方式)のが一番いいのではないかと思っています。

曖昧さ回避と特筆性[編集]

エンペディアは特筆性のハードルが超低い(*)ので、まぁどんな記事でも書くことが許されます。

しかし、曖昧さ回避にどこまで些末/雑多な情報を書き並べるのかは悩みどころです。個別記事があるならば曖昧さ回避にそれへのリンクを付け足すのはよいと思うのですが、「個別記事がない、かつ、余りにも特筆性・知名度がない事柄」をすべて記載していくのは、あまりにも「曖昧さ回避」の見通しが悪くなるように感じます。「近所の駄菓子屋さんの名前」とかを無限に付け足されても、読む側は困るでしょう。

(*)エンペディアには、特筆性という概念が「ない」のではなく「一応存在しているが非常にハードルが低い」とぼくは考えています。例えば「BadEditorが2023年3月1日に食べる予定だったランチ」とかいうしょーもな記事が許されるか、といったら流石に許されないでしょう。そういう意味で、非常に低い基準ではありますが、いちおう特筆性のハードルはあるといえます。(ただ、それをウィキペディア由来の「特筆性」とかいう、よく分からん言葉で呼ぶべきかという問題はありますが。単に「知名度」「重要性」でいいんじゃないでしょうか。)

「削除するべきである」と「削除することもできる」[編集]

ルールの中には「積極的に適用すべきもの」と「適用することもできるもの」がある、と思います。

例えば、EP:削除の方針 を例にとってみましょう。「著作権侵害」は積極的に削除するべきものです。一方、「合意形成がない記事分割」はどうでしょうか? 私は、かならず削除しなければいけないものだとは思いません。記事Aが合意なく分割されて、記事Bがつくられた。しかし、記事Aの執筆者も特に抗議することなく、記事Bに加筆している。ーーこういうケースで、わざわざ削除する必要があるとは思いません。

できることなら、この2つの違いをハッキリ明文化してルールに書いたほうがいいのかもしれません。しかし、どう言語化するかは中々難しいものです。(余計な補足情報をつけすぎると、肝心のメイン情報を把握しづらくなってしまいます。)少なくとも、「管理者」になる人はこの2つの違いを、わざわざ他人から説明されなくても自分で判断できる人でなければいけないと思います。

理想的な記事の書き方[編集]

エンペディアにおける「理想的な記事の書き方」を、つらつら考えてみます。

わざわざ「理想的」と断っているのは、全てのユーザーが24時間追い求める必要はない、という意味を含んでいます。常に頑張るのは疲れます。たまにはテキトーにやることが長くサイトを楽しむコツです。

情報価値という観点から[編集]

①信頼できる情報源(書籍や公式サイトなど)
②そのへんのサイト
③自分の記憶

①が見つからないときは②、②が見つからないときは③をもとにして書く、という順番が理想的だと思います。言い換えれば「全部①だけで書く」とか「全部③だけで書く」というのは、おかしな話だと思います。

数分ググれば明らかに間違いと分かる伝聞情報を、そのまま書いている記事はどうかと思います。そういう意味では「①や②を調べること」は重要だと思います。
しかし、ググってもよく分からないニッチな伝聞情報を収集するのも、エンペディアの存在意義のひとつですから、そういう意味では「③記憶をもとに書く」こともまた重要だと思います。

【細かな補足 #1】
常に③より②のほうが信頼できる、ということではありません。そのへんのサイトも結局「個人の記憶」に基づいて書いている場合があります。つまり信頼性のランキングは「①>②>③」というより「①>②③」といったところでしょうか。
【細かな補足 #2】
「①が見つからないときは②」....と書きましたが、どのぐらい懸命に調査したら「見つからなかった」といってよいのか、その閾値は微妙なところです。たとえば「国立国会図書館にしか所蔵がない稀覯本を調べたら、情報が載っているかもしれない」というケースにおいて、それを調べる義務はどのぐらいあるでしょうか。優秀なウィキペディアンなら頑張って国立国会図書館まで行くのかもしれませんが、まぁエンペディアの場合「近所の図書館と本屋でふつうに手に入る範囲の本を、数冊パラパラ見たがどうも情報がないっぽい」ぐらいの調査で十分ではないでしょうか。(もちろん後から「俺は国立国会図書館まで行ったぞ!!!」という猛者が現れたなら、その調査結果のほうが優先されるべきであるとは思います。)
「②そのへんのサイト」の調査にしても、この世のすべてのサイトを網羅的に調査するわけにはいきませんから、まぁ10分~2時間ぐらい(←かなり幅をもたせました)調べて見つからなければ諦めて、あとは「③自分の記憶」で書くぐらいが現実的な塩梅ではないでしょうか。