アフガニスタン

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アフガニスタン・イスラム共和国
Islamic Republic of Afghanistan
Flag of the Islamic Emirate of Afghanistan.png
首都カブール
公用語ダリ語パシュトゥー語
通貨アフガニー
人口2,916万人(2016年 - 2017年アフガニスタン中央統計局)

アフガニスタン・イスラム共和国(あふがにすたん・いすらむきょうわこく、略称:アフガニスタン・アフガン)とは、アジアの国家である。政体イスラム共和制。国土面積は65万2000平方キロ(日本の約1.7倍)。人口2011年の時点で2983万5000人。人口密度は45.7人/㎢。首都カブール。国名は「アフガン人の国」を意味する。主要民族であるパシュトゥン族を指す言葉で、アフガンの語義では「山国の民」とする説がある。

概要[編集]

アジア中南部に位置する。東と南にパキスタン、西にイラン、北にトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、北東では中国と国境を接する。パキスタンイランなどに囲まれた内陸の多民族国家である。国土の大半は高山地帯にある。主要な産業は農業。カブール北西のバーミアンは仏教遺跡で有名である。また、アメリカソ連イギリスなどが同地に侵攻し弱体化したことから「帝国の墓場」とも呼ばれている。

歴史[編集]

歴史的な民族問題[編集]

この国は古くから東西文明の起点となる立地のため、仏教イスラム教キリスト教など様々な文化が起こっては栄えた土地である。世界最大の摩崖仏で世界遺産にも登録されているバーミヤン遺跡はその象徴的な存在といえる。また、北東のバタフシャンは古来から装飾品に使われて日本で有名な高松塚古墳壁画に用いられた青い宝石・ラピスラズリ(瑠璃)の産出地でも知られている。

ただ、このように世界の文化が起こるということは各地の民族がこの土地に集まったということでもあり、つまりこの国は「民族の交差点」になっているのである。そのため、多民族が混在して現在ではアフガン人と言われているパシュトゥン人をはじめ、タジク人にウズベク人、ハザラ人、トルクメン人など主な民族だけで8つもあり、各民族の複雑な利害や歴史的対立が入り乱れて国家の統一が非常に難しい土地となっている。中でもパシュトゥン人は勇猛であるが安易な妥協には応じず閉鎖的で尚武の気風が強いと見られており、これが各民族との摩擦を作る一因になっていると見なす意見も存在する。この地にパシュトゥン人の神学生によって組織されたタリバンが生まれたのも、プライドが非常に高くて協調性が乏しい民族性のため、とする意見も存在する。2001年、当時のタリバン政権は国連経済制裁に反発して仏教石窟遺跡のバーミヤンの大仏を2体破壊して国際的な批判を浴びてもいる。

主な歴史[編集]

  • 1978年の軍事クーデターにより急進的な社会主義路線を採用する左翼政権が誕生し、国名をアフガニスタン民主和共和国と改名する。以降は内戦が続き経済が停滞。さらに1979年には政権維持の名目でソ連軍の軍事介入を契機にして壮烈な内戦状態になり、進駐したソ連軍によって傀儡政権が樹立される。しかし、ソ連の政治的衰退と反ソゲリラ集団の大攻勢が続き、ソ連は1989年に全面的に撤退せざるを得なくなった。
  • 1993年、旧ゲリラ勢力9組織からなる暫定連合政権が発足したものの、9勢力もが立つ寄り合い所帯だったために政権は安定せず求心力も乏しく、国内では各部族による利害対立が表面化して血で血を洗う内戦が繰り返された。何度か停戦協定も結ばれたが、そもそも政権に求心力が無かったので実効力が無く、しかも政権では主導権争いまで発生してアフガニスタンは事実上無政府状態となって群雄割拠の体をなした。
  • 1994年末、パキスタン難民キャンプから発したパシュトゥン人主体のイスラム原理主義組織・タリバン(タリバーン)が勢力を拡大。1996年には首都を制圧して1997年にはアフガニスタン・イスラム首長国と国名を変更して政権を樹立し、実効支配する国土を8割近くまで拡大するなどした。これに対して非パシュトゥン系の反タリバン連合(北部同盟ともいう)は利害を超えて大同団結して抵抗し、アフガニスタン北東部にまで追い詰められながらも激しく抵抗してタリバン政権による国内統一を阻んだ。また、タリバン政権が厳格にすぎるイスラム法統治とテロ組織支援の姿勢を崩さなかったため、かえって国際社会からの孤立を深めるようになると、次第に政権の行き詰まりが見え始める。
  • 2001年にはタリバン政権のイスラム過激派によるアメリカ同時多発テロに対するアメリカ軍などの報復攻撃により、同年10月から英米軍による空爆を受け、さらにそれに呼応した反タリバン連合の逆襲も受けてタリバン政権は一気に崩壊した。これにより多くの難民が発生し、治安が悪化した。国際部隊は2014年末に戦闘任務を終了した。アメリカは駐留米軍の早期撤退を目指しており、2020年2月にタリバンがアフガンをテロの温床にしないことを見返りに、国際部隊が2021年4月までに完全撤退する内容でタリバンと和平合意している。
  • タリバン政権崩壊後の2002年に、反タリバン勢力が結集して暫定政権が成立する。2004年1月にはイスラム教国教と定めた共和制国家の樹立、男女の完全平等などを主軸にした新憲法を制定して、同年10月に新政権が正式に発足したが、やはり寄り合い所帯の上にそもそもアメリカの支援があって成立していた政権だったため、利害対立による足並みの乱れとタリバン残党軍の攻勢により国家再建は多難を極めた。政情は不安定なまま推移し、アメリカ政府も追加派兵して治安回復を図り、2011年7月からは「出口作戦」を開始したが、やはり政権は安定していない。なお、アフガン戦争によって軍人・民間人あわせて1万数千人が犠牲になっている。
  • 2019年12月4日、「ペシャワール会」の現地代表を務めていた日本人の医師、中村哲が銃撃され死亡する事件が起きた[1][2]
  • 2021年
    • 8月15日 - タリバン側の攻勢により首都カブールが陥落、アフガニスタンは再度タリバン政権(アフガニスタン・イスラム首長国)に戻った[3]。タリバンの報道官は「恩赦を与える」旨の声明を出している。女性の扱いについては「イスラム法の認める範囲」での就労等は可能と述べた。コーランの中では「男は女の擁護者」「男の子には女の子の二人分を」と記述されているようなので[4]、恐らく男女平等というよりは男性優位の統治下になと思われる。この点は引き続き論争が続く可能性もある[5]。同じアフガニスタン人でも農村部と都市部では意見が違ったりもする様子。
    • 10月9日 - ISの戦闘員による自爆攻撃により、少なくとも50人以上が死亡、100人以上が負傷したと報道された。タリバンとイスラム国の対立が懸念されている。同じイスラム教なのに派閥が違うと内戦になるのか?

地理[編集]

アジアのほぼ中央部にある内陸国で、国土の75パーセントがヒンドゥークシ山脈などの高原・半砂漠である。平均高度は1200メートル。気候は内陸性で極度に乾燥し、寒暑の差が大きく、冬季には氷点下20度近くまで落ち込むところもある。6月から9月には強風が吹き付け、「風の120日」と呼ばれている。アフガニスタン北部を中央アジアに含むことがある。

首都・カブールの年平均気温は12.6度で、最高気温7月の25.3度、最低気温1月のマイナス1.7度であり、年間降水量は338ミリである。

ワハーン回廊 ()によって中華人民共和国と国境を接している。

経済[編集]

主要産業は農業と牧畜、毛皮や絨毯の製造などであるが、相次ぐ内戦などで国土は荒廃しており、そのため経済活動も大きく混乱している。20年を超える内戦は国土を荒廃させており、この内戦で耕地面積の3分の1が破壊され、計200万人の犠牲者、620万人以上の国外難民という著しい犠牲者が出ている始末である。タリバン政権崩壊後の2002年から帰還作業は続けられているものの、パキスタンにいる難民、あるいは国内で難民となっている民族もおり、経済再生はまだまだ遠いのが実情である。

また、ケシの栽培が急増しているとされ、世界の9割以上のアヘンが製造されているとされる。

通貨単位[編集]

国内総生産[編集]

  • 1人当たり国内総生産は517米ドル(2010年

住民[編集]

言語[編集]

宗教[編集]

歴代の国旗[編集]

脚注[編集]

関連項目[編集]