高句麗
高句麗(こうくり、紀元前37年 - 668年)は、現在の中国東北部の南から朝鮮半島北中部を支配した朝鮮古代国家である。首都は国内城(現在の吉林省集安)、後に平壌[1]。
概要[編集]
最盛期は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。朝鮮における三国時代に新羅や百済と共に朝鮮半島を割拠した。
12世紀に編纂された歴史書である『三国史記』によれば、紀元前に現在の中国東北部や松花江流域に居住していた民族・夫余の英雄・朱蒙が民族内の分裂を避けて南下し、現在の中華人民共和国と北朝鮮の国境を流れる鴨緑江支流の地域を支配下に置いた紀元前37年が、伝承上では高句麗建国の年とされている。高句麗は広大な耕地を求めて周辺への進出を繰り返し、鴨緑江北岸の国内城(現在の吉林省集安)を首都として定めた[1]。後漢の時代になると、これまでの部族共同社会から中央集権国家への移行を推し進めた[1]。
三国志の時代になると、華北を支配下に置いた曹操の魏の侵攻を受けて一時的に衰退する[1]。しかし五胡十六国時代に中国が混乱して高句麗への介入が減少したので、それに乗じて領土を拡張して朝鮮半島から漢人勢力を追放し、5世紀の好太王の時代には遼東半島から吉林省、沿海州、さらに現在の韓国の京畿道、江原道にまで領土を拡大して全盛期を迎えた[1]。さらに首都・平壌では仏教文化が隆盛し、朝鮮半島の伝統的な床暖房システムである「温突」(オンドル)を備えた屋敷が建ち並ぶなど発展する[1]。
しかし新羅・百済との戦いで国力の疲弊が始まり、中国で隋の時代になると、楊堅や煬帝による大規模な侵攻を受ける。特に煬帝の侵攻は激しく、高句麗側の疲弊も激しくなり、これが国力を著しく衰退させる遠因となった。7世紀になると軍人のクーデターまで起こって王権は一気に衰退し、668年に高句麗は唐・新羅連合軍に攻められて首都の平壌が陥落し、宝蔵王は投降して高句麗は滅亡した[1]。
宝蔵王は唐の長安に連行されて677年に唐配下の「遼東州都督・朝鮮王」として封じられるものの、旧臣を集めて高句麗の再興を計画したので捕らえられて現在の四川省に流罪とされ、同地で682年に死去した[2]。
なお、後年朝鮮半島を支配した高麗は10世紀に高句麗の復活と称して成立した後高句麗王を倒して成立した王朝である。
高句麗関連の年表[編集]
- 紀元前37年 - 夫余の朱蒙により高句麗が建国される。
- 179年 - 故国川王が崩御し、継承争いが起こる。
- 219年 - 曹操配下の公孫康が高句麗に侵攻する。
- 244年 - 魏軍が高句麗に侵攻し、首都の国内城が陥落する。
- 245年 - 魏軍が高句麗に侵攻する。
- 313年 - 高句麗が楽浪郡に侵攻する。
- 372年 - 高句麗に仏教が伝来する。
- 400年 - 高句麗が新羅を朝貢国とする。
- 412年 - 高句麗で長寿王が即位する。
- 427年 - 高句麗が現在の平壌に遷都する。
- 523年 - 高句麗が百済に侵攻して勝利する。
- 581年 - 高句麗が隋の文帝楊堅に朝貢する。
- 610年 - 高句麗の僧侶である曇徴が日本に紙・墨・絵具の製法を伝える。
- 612年 - 隋の煬帝による侵攻を受けるが撃退する。
- 624年 - 高句麗に道教が伝来する。
- 642年 - 軍人の淵蓋蘇文によるクーデターが起こり、宝蔵王が即位する。
- 661年 - 唐軍に攻められるが撃退する。
- 668年 - 唐・新羅連合軍に攻められて首都・平壌が陥落し、高句麗が滅亡する。