楽浪郡
楽浪郡(らくろうぐん、旧字体:樂浪郡、ハングル表記:낙랑군)とは、かつて朝鮮半島北西部に存在した漢四郡の一つ。四郡の中で最も長く存続し、後世に強い影響を与えた。
歴史[編集]
漢による朝鮮征服[編集]
前漢の皇帝である武帝は外交政策において、ベトナムに存在した南越国を征服するなど積極策を展開した。そんな中、衛氏朝鮮の国王であった衛右渠が漢と周辺諸国の国交を妨害するなど、漢に対し敵対的に行動したため、漢は前109年に衛氏領に侵入。翌年に首都王険城[1]を攻め落し、衛氏による朝鮮支配を終わらせた。
中国の支配[編集]
衛氏滅亡後、漢はこの地を直接支配するため四郡を設置した。その中で旧都王険城周辺に設置されたのが楽浪郡である。その領域は大同江、清川江流域から鴨緑江流域にまで及んだ。朝鮮半島に設置された他の三郡が早い時期に放棄されたのに対し、楽浪郡はその後も繁栄を続け、結果として朝鮮半島における中国文化の中心地となった。3世紀になると中央政府の弱体化に伴い勢力を伸ばしていた豪族公孫氏の支配下に入った。公孫康の治世中204年に当時半島内での勢力を強めていた倭などに対抗するため属県であった南部の帯方が新たに郡とされた。
終焉[編集]
238年には公孫氏を滅ぼした魏の支配下に入った。邪馬台国の女王卑弥呼もこの時代に楽浪郡経由で中国に使者を送っている。その後は魏に変わり晋の支配下に置かれた。晋統治下でも相変わらず繁栄を続けていたが、晋本国が内乱で混乱すると次第に弱体化していき、ついに313年、北方より侵入した高句麗により滅ぼされ、漢民族による朝鮮半島の直接支配は終わりを告げた。
遺産・後世への影響[編集]
前述の通り長い間漢民族による支配が続き、その結果として官僚制度など優れた中国式の組織が移入された。中国式で建設された楽浪漢墳は当時の繁栄を物語っている。これらの組織は後に楽浪を支配の中心とした高句麗の発展を助けることになる。 また、海に面してることもあって当時の日本とも交易が盛んであった。出雲地方などでは楽浪産の遺物が多数発掘されており、また日本の代表的な帰化氏族である漢氏及び秦氏は楽浪滅亡時に日本に難民として流れてきた官僚の子孫だとも言われている。