鉄道忌避伝説

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鉄道忌避伝説(てつどうきひでんせつ)は、鉄道史家の青木栄一の執筆した書籍、及び、そこで論じられた事実である。対義語に我田引鉄がある。

概要[編集]

明治時代、様々な理由で鉄道の建設に反対したと各地の地方自治体郷土史に記述したが、それがほとんど誤りだと論じた。これに関する参考文献となるべき一次資料(当時の新聞)がなく。裏付けがとれないと論じた。

伝説側のこれまでの主張[編集]

以下を根拠に宿場町などの人口密集地で反発が起き、それを避けて鉄道が敷かれたとしている[注 1]

  1. 旅籠に客が来なくなる。
  2. 汽車の煙や火の粉で火事が起きる。
  3. 鶏が卵を産まなくなる。魚が捕れなくなる。
  4. 若いもんが汽車に乗って町に遊びに行って帰って来なくなる。

反論の主旨[編集]

人口密集地や田畑に鉄道を通すと多額の土地買収費用がかかり、それが建設費の増大と建設の遅延になる[注 2]ので根拠に乏しい。一部の地域では鉄道を通したいために土地の寄付を行った大地主がおり[注 3]、そのようなところに鉄道が敷かれるのは当然である。実際、地下鉄と路面電車を除き、人口密集地に鉄道を通す方が少数派である。このため土地の価格が安い被差別部落沿いに鉄道が建設されることが多かった。

あとは、急勾配などの障害を避け、線路を通しやすい所にルートを選んだ結果、人口密集地から離れてしまうこともある。岡崎駅旧土山町など旧東海道沿線甲州街道の調布や府中などの鉄道忌避伝説は、これが真相ではないかと言われている。

影響[編集]

郷土史に誤った鉄道忌避が書かれた結果、教科書や児童向けの書籍にも引用される結果となった。

駅の誘致の成功と失敗[編集]

  • 仙台駅はもともと、現在の宮城野駅に建設する予定であった。線形からしたら自然の選択だが、住民側が町の衰退を恐れて現在地に誘致した。東北新幹線仙台駅も同様ないことが起きた。
  • 高岡駅は現在地より西へ1km離れた現在の高岡市立博労小学校付近に建設する予定であったが、水害で資材が流され、現在地での建設となった。
  • 西国街道(山陽道)正條宿は江戸時代は室津港と揖保川水運の接点で栄えたが、鉄道建設時は、逆に揖保川から近すぎたために駅を設置できず、川から少し離れた、西隣の片島宿寄りの黍田地区に竜野駅が設置された。
  • 後述のように阪鶴鉄道が通じなかった篠山城下町は、1915年に篠山市街に篠山鉄道篠山町駅が開業したが、1944年に京都〜姫路間の迂回路線の一部として篠山鉄道に代わって開通した国鉄篠山線は、市街地のはるか南郊に篠山駅が開設されたため集客不振となり、1972年3月に廃線となった。

忌避伝説のある町[編集]

  • 坂井市丸岡(福井県
    丸岡藩の城下町。明治維新期にルート変更に成功した北陸道(現・国道8号)の道路交通に期待するあまり、鉄道駅誘致に冷淡だったと言われているが、実際は単に市街地を避け、三国港への連絡を考慮するルートにした可能性あり。
  • 笛吹市一宮町(山梨県
    桑畑に影響が出るとして、線路が敷けず、日下部(現・山梨市)経由のルートとなり、加えて、鉄道王雨宮敬次郎に忖度して塩山経由のルートになったという「引鉄伝説」もあるが、実際は、石和初鹿野の高低差から扇状地の縁を経由した緩勾配路線として建設した可能性あり。
  • 豊川市御油町、赤坂町、岡崎市藤川町
    江戸時代は東海道の御油、赤坂、藤川宿で栄えたが、街道交通が廃れるとして忌避運動が起こり、海岸寄りの御津、蒲郡経由ルートになったと伝えられる。しかし、実際は、蒸気機関車では急勾配になる宝飯・額田の郡境の本宿付近を避け、短距離のトンネルで星越峠を貫き、山脈の鞍部に当たる深溝(三ヶ根駅付近)を通過して緩勾配にした可能性あり。
    なお、愛知電気鉄道は電車で旧東海道沿いのルートを辿ったが、御油、愛電赤坂、藤川の各駅に速達列車が停まらなかったため、昔日の繁栄は戻らなかった。
  • 御影本町神戸市東灘区
    灘の酒の本場。蒸気機関車が通ると煤で酒の味に影響が出るという理由で線路を敷けず、やや北の住吉駅に鉄道を通したと言われているが、実際は単に市街地を避けただけの可能性あり。
  • 有馬町神戸市北区
    1910年宝塚まで開通した阪急宝塚線は元々有馬温泉を目指していたが、有馬温泉が大阪から日帰り圏内になると宿泊客が来なくなるという理由で敷設に反対したと言われている。しかし、単に山岳部の難工事が予想されたため、という可能性あり。ちなみに、1915年に国鉄有馬線が三田から有馬に通じ、1943年に休止されるまで存続した。
  • 丹波篠山市旧市街(兵庫県
    福知山線の篠山口駅は、篠山の旧城下町から5kmほど離れており、これも、蒸気機関車の火の粉で家が燃える、などの理由で住民が福知山線の前身の阪鶴鉄道の建設に反対した、との鉄道忌避伝説[注 4]がある。
    しかし、実際は急勾配を避けて大阪から舞鶴まで線路を敷くと南矢代・石生といった標高の低い分氷嶺付近を通すのが都合が良く、このルートで篠山市街も通すと大きな迂回を強いられるため、市街地から離れざるを得なかった可能性あり。
  • 高砂市旧市街(兵庫県
    江戸時代、加古川河口の港町であった高砂は加古川流域最大の都市で、後の加古川市よりはるかに繁栄していた。明治になり、1888年に開通した山陽鉄道(後の山陽本線)は高砂ではなく加古川を通る様になったが、海運業が廃れることを恐れた高砂町が鉄道忌避したためと言われている。しかし、実際は単に西国街道沿いを通しただけ、あるいは架橋回数を少なくするために上流部を選んだ可能性あり。その後、加古川駅が貨物の重要拠点として繁栄する一方で、高砂の海運業は衰退。後に播州鉄道や神姫電鉄が進出するも時既に遅しで、加古川流域最大の都市は加古川市が取って代わることとなった。

書誌情報[編集]

  • タイトル:鉄道忌避伝説の謎 : 汽車が来た町、来なかった町
  • 出版社:吉川弘文館
  • 刊行年:2006年

関連項目[編集]

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  1. 一方で東海道本線の三島駅(現・御殿場線下土狩駅)で直線ルートを外れて三島宿場町に近い南東寄りのルートを通したことが「鉄道忌避が蔓延した中での先見的な誘致活動」の事例として紹介されることが多い。
  2. 宿場町の近傍を通過しても、中山道の本山宿、今須宿や西国街道(山陽道)の片島宿のように鉄道駅が設置されなかったり、東海道の二川宿のように開業時に設置がされず、数年後に二川宿の西外れに設置された事例がある。
  3. 富山県砺波市さだまさしの祖先が土地を提供した山陰本線折居駅など。
  4. 一方で京姫鉄道による京都 - 園部 - 姫路間の路線で篠山を経由する構想があり、重複を避けるためとの説もある。