法性院 (遠山綱景の娘)
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法性院殿(ほっしょういんでん、天文11年(1542年) - 天正16年3月27日(1588年4月22日))は、室町時代後期(戦国時代)から安土桃山時代にかけての女性。
生涯[編集]
父は後北条氏の重臣・遠山綱景。『太田家記』では北条氏康の姪であったと記録していることから、綱景の妹が氏康の側室であった可能性がある。それらの縁から氏康の養女として永禄年間初期に後北条家の重臣・太田康資に嫁いだ。康資の母は氏康の姉妹であるため、それが考慮されての縁組だった[1]。
康資との間には、永禄4年(1561年)に嫡子・資綱を、他にも娘を1人生んでいる[1]。しかし康資は後北条家の一族として重用されていたにも関わらず、永禄7年(1564年)の第2次国府台合戦で氏康を裏切って法性院の実父の綱景、さらに兄弟の隼人佐を戦死させてしまう。この合戦で康資は江戸領を失って、法性院ら家族を残して上総に没落した。残された法性院は逆に氏康から追及を受けたが、何とかかわしている。しかし居づらくなったのか、法性院も幼い我が子2人を連れて北条領から退去し、上総の康資のもとに逃げ込んでいる[2]。
天正9年(1581年)10月、里見氏家臣・正木憲時の反乱に連座して康資は自害を余儀なくされる。しかし法性院とその子供たちには責任を問われず許され、以後も里見領で過ごすことを許されている。天正16年(1588年)3月27日、安房小湊誕生寺において死去した。47歳没。法名は法性院宗覚日悟[2]。