跡部昌出

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跡部 昌出(あとべ まさいで、? - 天正10年3月11日1582年4月3日))は、戦国時代武将甲斐武田家家臣跡部勝資嫡男

生涯[編集]

父は跡部勝資。兄弟に和田信業跡部昌勝らがいる。官途は父と同じ大炊助。

武田勝頼に仕え、天正8年(1580年)6月に上野国沼田城攻略の際の戦後処理で朱印状の奏者として活動している[1]。また年代不詳だが、今福昌常と共に義松斎に伝馬制度を通達している。他にも書状を出したりなど、勝頼の側近として活動している。

天正10年(1582年)2月に織田信長徳川家康による武田征伐が始まると、昌出の行動に関しては諸説が記録されている。これは父と同じ大炊助を称していたことからによる混乱と見られている。諏訪郡において殺されたと『甲陽軍鑑』には記録されているが、軍鑑では「出頭人の跡部大炊助」とあるため、出頭人と言えるほど活躍してない昌出とは考えにくく父親のことかと推定される。『信長公記』では勝頼が天目山自害する際に殉じた衆として「跡部尾張守・同息」と記録されており、これは昌出のことと推定されている。武田征伐で死んだことは間違いないようである。

3か月後に本能寺の変が起こって信長が死去し、天正壬午の乱が発生した際、昌出の同心18名が「天正壬午起請文」に署名している。

脚注[編集]

  1. 加沢記