照禅院了玄

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照禅院 了玄(しょうぜんいん りょうげん、文明10年(1477年)‐ 永正15年1月26日1518年3月7日)は、室町時代中期から後期にかけての足利将軍家の一族。第10代征夷大将軍足利義稙の異母弟。

生涯[編集]

父は足利義視。母は不詳。了玄が生まれた年、父の義視は美濃国亡命していたため、了玄は美濃で生まれた可能性が高い。

当初は禅宗の僧侶として出家し、耀山周台と号した。延徳3年(1491年)4月、相国寺大智院に入寺したが、延徳4年(1492年)6月に兄・義稙の命令により真言宗に宗旨替えをして、三宝院門跡となっている(『蔭凉軒日録』『五八代記』)。

明応の政変で兄の義稙が細川政元に追放され、周防国大内義興を頼って下向した際、それに従っている。この際に周防に在国し、三宝院門跡を辞して勝禅院了玄と号している。

永正5年(1508年)、義稙が義興に擁されて京都に帰還し、将軍として再任されると自らも京都に戻った。

しかし、義稙との仲は必ずしも良いものではなかったらしく、永正6年(1509年)10月に京都から出奔している。永正15年(1518年)1月27日に死去。享年41。

第11代将軍・足利義澄からは弟の義忠と同じように将軍に擁立される可能性を警戒されており、石清水八幡宮に義稙と了玄の死去を願う願文が奉納されている。