蒲生郷舎
蒲生 郷舎(がもう さといえ、? - 慶長5年9月15日(1600年10月21日))は、安土桃山時代の武将。蒲生氏郷、次いで石田三成の家臣。
略歴[編集]
Wikipediaでは蒲生郷舎と蒲生頼郷は別人、とされているが、『古今武家盛衰記』『常山紀談』『関原軍記大成』などはいずれも同一人物としている。これらの史料はいずれも後代の江戸時代の史料ではあるが、郷舎と頼郷は同一として扱われており、Wikipediaが何をもって別人としているのか不明としかいいようがない。安藤英男は著書において郷舎、別名を真令(さねのり)、頼郷(よりさと)と同一人物として紹介している。
受領名は備中守。元の名は横山 喜内(よこやま きない)[1]。
元は近江国の守護大名である六角氏の家臣で、六角氏が織田信長に滅ぼされた後に浪人となり、その後に蒲生氏郷に仕えた。天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州征伐で秋月種実の岩石城攻めの際、右翼の2番隊長として勇戦して功績を立てた。さらに、秀吉がこの戦役で勝山城において諸大名から大剛の勇将を推薦させて相撲を取らせた際、氏郷は横山を、田中吉政が渡辺勘兵衛を、加藤清正が木村又蔵を、福島正則が可児才蔵を、加藤嘉明は塙直之を、黒田孝高が母里友信を、豊臣秀長が天野源右衛門を、石田三成が大山伯耆をそれぞれ推挙したという[1]。
氏郷が伊勢国松坂城主として入封した際、氏郷から蒲生姓と郷の偏諱を与えられた。さらに会津若松城に入封した際に6000石の知行を与えられ、塩川城主に任命された。九戸一揆においては13番の後備支隊長として参戦する[1]。
しかし、文禄4年(1595年)に氏郷が死去。さらに蒲生騒動が起こり、蒲生氏自体も18万石にまで減封させられたため、蒲生氏を去った。後に石田三成から1万5000石の高禄で招聘され、島清興と並ぶ両翼の重鎮となった[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、三成に従って本戦にも参加する。本戦当日には、同僚の北川平左衛門と共に床几に腰をかけ、泰然自若として指揮をとったという。しかし、石田軍は次第に東軍の猛攻にあって崩れ出し、郷舎は味方が崩れるのを見て自ら馬に乗って敵軍の中に乗り入れると、自ら槍を奮って半時ばかり勢いを盛り返した。しかし、その間に自らの馬は深手を負って動けなくなったので徒歩で戦い、奮戦しているときに顔見知りだった織田長益(信長の弟)と巡り合ったので、自ら名乗りをあげて長益に討ちかかり、その高股を斬って長益を落馬させた。しかし、長益の危機を見てその家臣たちが駆け付け、郷舎は2人までを斬って捨てるも、長益の家臣に次々に襲われて遂に力尽き、戦死を遂げたという[1]。