北川平左衛門
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北川 平左衛門(きたがわ へいざえもん、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。石田氏、蒲生氏の家臣。
略歴[編集]
土佐国出身。最初は蒲生氏郷に仕え、氏郷が伊勢国松坂城に入部した際に町奉行に任命されて、松坂の町割を担当した。天正18年(1590年)の小田原征伐では氏郷に従って参加し、伊豆国韮山城攻めで敵の北条氏規率いる夜襲を撃退して味方の鼓舞で活躍した。奥州仕置を経て氏郷が会津若松城に入部すると、7200石の知行を与えられて津川城主に任命される[1]。
しかし文禄4年(1595年)に氏郷が死去し、蒲生家中で蒲生騒動が起きると蒲生郷舎らと共に牢人となり、やがて石田三成に高禄をもって招聘された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに参加し、石田隊敗走と共に戦場を離脱した。なお、三成が招聘した蒲生牢人18名のうち、17名は全員討ち死にしており、生き残ったのはこの北川のみである[1]。
戦後は小川土佐と改名し、氏郷の跡を継いでいた蒲生秀行の下に帰参して、家老を務めた[1]。