武田信堯
ナビゲーションに移動
検索に移動
武田 信堯(たけだ のぶたか、天文23年[1](1554年) - 天正10年3月15日[1](1582年4月7日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田家の一族。
生涯[編集]
父は武田信虎の5男・信友で嫡子[1]。武田信玄の甥。幼名は勝千代[1]。官途は左衛門佐[1]。正室は駿河先方衆の御宿友綱の妹[2]。信玄の時代から甲斐武田氏に仕え、元亀3年(1572年)10月に武田家朱印状の奏者として活動しているのが史料上の初見である[1]。翌年から文書を3件発給しているが、富士浅間神社への神馬奉納状では筆頭でその名がある[2]。武田勝頼の時代には叔父の一条信龍と共に駿府城代を務めた[2][3]。
天正10年(1582年)2月、織田信長・徳川家康連合軍による武田征伐が開始されると、信堯は家康の攻撃を受けて甲斐に逃亡する。勝頼自害から4日後の3月15日に甲府の善光寺において織田信忠により処刑された[2]。享年29[2]。