坂本龍馬

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坂本龍馬
さかもと りょうま
Ryoma.jpg
高知県高知市桂浜の坂本龍馬像。
本名 坂本龍馬
誕生日 1836年1月3日
死没地 京都府京都市
死因 暗殺
創設 亀山社中(海援隊)
配偶者 お龍

坂本龍馬(さかもと りょうま、1836年1月3日-1867年12月10日)とは、江戸時代末期から幕末にかけての武士、亀山社中(海援隊)の初代隊長である。

生涯[編集]

1836年1月、土佐藩(現在の高知県全域)にて生まれる。幼少期は上級武士のもとで育った。

1853年マシュー・ペリー横須賀に来航(黒船来航)した時、当時17歳の龍馬は黒船を実際に見たと言われる。[1]

1859年頃、勝海舟を殺害しようとするが海舟の説得により失敗する(勝海舟暗殺未遂事件)。龍馬はなんとか海舟の弟子になり神戸海軍操練所にて航海の訓練を受けることとなる。その頃日本は下関戦争薩英戦争桜田門外の変などの尊王攘夷を引き金とした戦争が多発しており、非常に幕府の衰退化や外国から不平等に扱われる事も多い混沌とした時期であった。

しかし1864年、神戸海軍操練所は解散し龍馬は自分で道を歩んでゆく事となった。1865年、龍馬は亀山社中(後の海援隊)を結成し、日本最初の株式会社を土佐藩の脱藩者と共に設立した。龍馬は粘りに粘った約1年間、スコットランド王国出身の商人、トーマス・グラバーから船を買い、長州や薩摩を説得させた。

1866年3月、ついに政治関係で相当仲の悪い薩摩藩長州藩の間で薩長同盟が締結され、日本の倒幕の基盤が出来上がった。(この頃から徳川慶喜が決断に迫られる)。そしてその翌年、高杉晋作らに軍艦を譲られた。

同年に第二次長州征伐が勃発、龍馬らは参戦して現在の門司港を砲撃、さらに肥後藩の軍艦を砲撃し沈没させるなどの功績を残したが6月初旬に長州に船を返した[2]

この事が衝撃だったのか幕府軍は敗退した。そして翌年、いろは丸を購入したものの紀州藩の船と激突し沈没した(後に万国公法に基づき紀州藩が7万両支払う事となった)。

同年12月10日、現在の京都市にある近江屋にて死去[3]。享年32。そして翌年海援隊はわずか3年間で解散した。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 最初は乗船していた乗組員らを殺害しようとしていたらしい
  2. この時ユニオン号で薩摩まで行こうとしたが拒否されたので、ワイル・ウェフ号なるプロイセン公国の船で薩摩へ銃を輸送したが現在の平戸市近海にて沈没した。
  3. これは新選組による謀略という説もある