大御所政治
大御所政治(おおごしょせいじ)とは、江戸時代後期の寛政5年(1793年)から天保12年(1841年)までのことを言う。この時代は江戸幕府の第11代征夷大将軍・徳川家斉の時代であり、家斉は後に大御所となったことから、大御所政治あるいは大御所時代(おおごしょじだい)などと言われている。ただし、家斉が大御所であった期間は厳密には、天保8年(1837年)から天保12年(1841年)までの4年間ほどである。当時の元号である文化・文政などが大半を占めるこの時期を化政時代(かせいじだい)、文化文政時代(ぶんかぶんせいじだい)とも言う。
概要[編集]
大御所時代の前段階[編集]
天明6年(1786年)、第10代将軍・徳川家治が死去して老中・田沼意次が失脚し、田沼時代は終焉する。その後、第11代将軍には家治の養子である家斉が就任し、老中には反田沼派の巨頭であった松平定信が就任して、定信による寛政の改革が開始される。
しかし寛政の改革は厳しすぎる施策が多いことから不人気であり、さらに定信は尊号一件で朝廷だけでなく、将軍の家斉やその実父である治済とも対立し、寛政5年(1793年)に定信は失脚し、寛政の改革は終わりを告げた。
将軍就任時は15歳の若さだった家斉もこの頃には21歳に成長しており、以後は家斉とその父の治済、そして家斉の側近らが幕政の実権を掌握した将軍親政が開始されることになった。ただし家斉は実務などは松平信明など老中に相変わらず一任はしていた。
大御所政治[編集]
大御所政治は50年にわたって続けられたが、その間に見るべきところは実を言うと少ない。これは家斉が幕政にあまり積極的ではなかったことが一因に挙げられる。その間に行なわれた重要な事を幾つか挙げておく。
- 関東取締出役の設置 - (文化2年(1805年)設置。八州廻りの名でよく知られている。関東地方で出没する犯罪者の取り締まりや風俗の矯正を任務とした。手付・手代などから8名を任命し、2人1組で関東地方いわゆる関八州を巡回した。
- 寄場組合 - (文政10年(1827年)設置。関東取締出役の下部組織で、関東全ての農村に40村から50村ほどの村単位で組合を作らせて、自主的に治安警察機能を持たせることにしたもの。
- 家斉の子女の余りの多さの問題 - 家斉は非常に好色で、嫡男となる次男の家慶をはじめ、男女合わせて53名(流産を含めれば57名)も子作りに励み、大御所時代の期間だけでも1年に平均1人以上生まれていることになる。これは余りに多すぎで、当然のように徳川将軍家を継承する家慶以外の子女をどうするかで問題になり、男子は、清水徳川家や各地の大名家に養子に出し、女子は大名家と婚姻させたりした。そのための費用で幕府財政は火の車になる。また、家斉自身が非常に奢侈を好んだため、幕府財政はそのためにも悪化し、同時に側近政治で幕政は腐敗していった。
家斉は天保8年(1837年)、65歳の高齢を迎えたことから次男で嫡男の家慶に将軍職を譲って隠居し、江戸城西の丸に入って大御所となった。ただし幕政の実権はしっかり家斉が保持しており、なおも家斉の大御所政治が展開されることになる。大御所政治が最終的に終焉を迎えるのは、天保12年(1841年)の家斉の死去のときである。
結果[編集]
幕政の腐敗、そして無為無策により多くの不満が醸成されていったのがこの大御所時代であった。しかも天保期に入ると江戸の三大飢饉と称される天保の大飢饉が発生した。ところがこの飢饉で豪商が米を買い占めた上、豪商と癒着していた大坂町奉行が救民救済を取らないなど、最早幕政の腐敗は江戸だけでなく各地にも拡大していた。そして、この幕府の処置に不満を抱いた大坂町奉行の元与力である大塩平八郎は、遂に貧民を率いて反乱を起こした。いわゆる大塩平八郎の乱であるが、この反乱自体は小規模で幕府によってわずか1日で鎮圧され、大塩もやがて逃亡先で自決を余儀なくされる。
しかし、元幕臣が幕府に対して反乱を起こすということは各地に衝撃を与えた。この大塩の乱に触発される形で、同年に越後でも大塩門弟と称した国学者・生田万が反乱を起こすなど(生田万の乱)、幕藩体制と幕府の支配に大きな動揺を与えていく原因を作り出したのが、この大御所政治であった。
ただし、家斉が幕政に消極的で民衆に対してあまり政治的な規制をかけなかったことは、新たな文化を生み出した。いわゆる化政文化であり、家斉の大御所政治による副産物が文化という点から生まれたのも事実であった。