大聖寺城

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大聖寺城(だいしょうじじょう)とは、現在の石川県加賀市大聖寺地方町に存在した日本である。

概要[編集]

江沼神社の背後、錦城山に存在した平山城である。

沿革[編集]

この城は最初は武士が支配していたのではなく、北陸で勢力が強かった一向一揆などの僧侶勢力が有事に備えて築城していたと言われている。天正3年(1575年)に織田信長の重臣・柴田勝家が本格的に城として修築、整備を行い、天正8年(1580年)に信長の命令で加賀一向一揆を滅ぼした後、勝家は大聖寺城を家臣の拝郷家嘉に与えて城主に任命した。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで家嘉は戦死し、勝家も羽柴秀吉に敗れて自害したため、秀吉は新たな城主に溝口秀勝を任命して4万4000石を与え、新たな越前国主にした丹羽長秀与力に任命した。

慶長2年(1597年)に堀秀治越後国春日山城主に移封された際、溝口もその移封に従って新発田城に移された。このため、新たな大聖寺城主には山口宗永が7万石を与えられて任命された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、山口は西軍に属したため、東軍に属した加賀金沢城主・前田利長の攻撃を受けることになり、大聖寺城は前田の大軍の前に8月3日に落城した(大聖寺城の戦い)。この戦いはかなりの激戦だったようで「血川をなし枕屍麻を乱すが如き」と記録されているほど凄惨な有様だったとされ、山口軍の討ち取られた首級の数は544にも達したとされている(『越登賀三州志』)。その後、大聖寺城は前田氏の支配下となり、城代が設置されていたが、元和元年(1615年)に江戸幕府が発令した一国一城令のため、廃城となった。

寛永16年(1639年)に前田利長の異母弟で第2代加賀藩主となっていた前田利常は、小松城隠居して長男の前田光高に家督を譲った際、富山藩大聖寺藩という2つの支藩を作り上げた。大聖寺藩主には利常の3男・前田利治が7万石で任命されたが、この際に利治はかつて大聖寺城があった山の麓に藩主の屋敷、すなわち大聖寺陣屋を構えて藩庁とした。ここで藩主は藩政を取り仕切り、後に10万石格の待遇を受けている。

現状[編集]

現在は城跡に土塁と堀跡がわずかに残っており、うっそうとした樹林で覆われている。なお、城跡は加賀市史跡に指定されている。

周辺の施設[編集]

交通[編集]

外部リンク[編集]