大清帝国

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大清帝国(だいしんていこく)とは、かつて中国本土を支配していたツングース系女真族の王朝である。最後の中国王朝である。

概要[編集]

明末期に満州統一で成立し、が滅びたあと、帝政交代を目指した李自成を滅ぼして中国全土を支配した異民族の王朝である。首都北京におき、漢民族弁髪を強要し、官服に胡服を採用するなどして支配する一方、科挙を実施した。海禁政策をとり、貿易を制限していた。しかし、アヘン戦争の敗北により各地を開港させられ、列強の半植民地化により国力が衰え、辛亥革命により滅亡した。

異民族王朝の成立[編集]

1616年に太祖ヌルハチによって建国された女真族の王朝・後金を起源とし、1635年北元(チャハル部)を滅ぼす。末帝(エジェイ・ハーン)から皇帝の印璽を献上される。

1636年に2代目・太宗ホンタイジ大ハーンの地位に就き国号を「清」、民族名を「満洲」と改めた。を滅ぼして易姓革命目前だった李自成をホンタイジの弟のドルゴンが追い詰めて1645年に滅ぼし、1659年に成(蜀)で張献忠の死後も抵抗していた西の残党を降伏させた。

明宿臣が華南に明皇族を擁立した南明を1662年に打倒した。鄭成功台湾に明遺臣を連れて成立させ、後裔が維持した東寧王国(鄭氏政権)を1683年康熙22年)に滅ぼした。
清による支配を拒んだハルハ部(後元)が、カラコルム陥落でジュンガル帝国に1688年に滅ぼされると出帝(チャグンドルジ)の亡命を許した。1697年、ジュンガルを外蒙古から駆逐し、全モンゴルを支配下に置いた(これより蒙古八旗は数十年に渡り、ジュンガルの再侵攻と闘う)。

乾隆帝の時代に最大版図となり、現在の中国・台湾・モンゴルに加え、ウラジオストク(現ロシア)やアルマトイ(現カザフスタン)も支配していた。

滅亡[編集]

19世紀に入ると清から大量に茶、陶磁器、絹を購入していたイギリスが清にアヘンを売却していたことが原因でイギリスとの間でアヘン戦争が勃発し、香港が割譲された。これに始まる列強の軍事的圧力により、良港が次々租借地になり、マカオも本格的に植民地とされ、さらに不平等条約を結ばれて苦しみ、太平天国の乱清仏戦争日清戦争義和団事件によって国力を落とした。
一方、洋務運動や科挙の廃止によって国力の回復を試みるが、西太后が瓦解させて守旧体制となり、1908年の西太后死後、民営の鉄道を国有としようとして、これを外国に売却することが発覚し、1911年に起きた孫文が指導する辛亥革命によって1912年に滅び、中華民国に代えられた。最後の皇帝宣統帝は、旧臣張勲に担がれ1917年7月に半月ほど復位して一時清朝が復活。その後1932年満州国執政を経て皇帝となった。

国旗[編集]

関連項目[編集]