司馬伷
司馬 伷(しば ちゅう、227年 - 283年)は、三国時代の魏から西晋にかけての武将。西晋の皇族。字は子将(ししょう)[1]。父は司馬懿で4男(5男説あり)[1]。母は伏夫人[1]。異母兄に司馬師・司馬昭。妻は諸葛誕の娘(諸葛太妃)。諡号は武王。子は司馬覲・司馬澹・司馬繇・司馬漼。
生涯[編集]
最初は魏の家臣として仕え、正始年間(240年 - 249年)の間に南安亭侯に封じられ、以後は寧朔将軍・散騎常侍・兗州刺史などを歴任する[1]。260年に第4代皇帝・曹髦が挙兵した際、曹髦の進軍を阻止しようとしたが曹髦に一喝されて退散した(『漢晋春秋』)。
265年に甥の司馬炎が曹奐から禅譲を受けて西晋を建国すると、東莞郡王に封じられ、後に琅邪王に改封される[1]。他にも鎮東大将軍・仮節・徐州諸軍事になって対呉戦線を担当した[1]。279年から武帝の命令で呉侵略が開始されると、司馬伷は軍を率いて呉に侵攻し、280年には王濬・王渾と共に呉の首都・建業に迫った[1]。呉の皇帝である孫皓は司馬伷に降伏を申し入れ[1]、こうして呉は滅亡して三国は西晋によって統一された。
司馬伷は孫皓を降伏させた功績により大将軍・侍中・督青州諸軍事に任命されるが、283年に死去した[1]。享年57。死去する前に4人の息子に所領を分割する事を武帝に願い出て許され、後継者は恭王・司馬覲がなった[1]。司馬澹は武陵王、司馬繇は東安王、司馬漼は淮陵王に封じられた[1]。
なお、八王の乱と永嘉の乱を経て江南に東晋を建国した司馬睿は司馬伷の孫であり、司馬覲の息子である[1]。東晋の皇帝は全て司馬伷の血統から輩出している。
『三国志演義』では最終回の第120回の呉侵略で鎮東大将軍として登場する。ただし孫皓を降伏させたのは王濬とお株を奪われる形になっている。