愍帝 (西晋)
愍帝 びんてい | |||||||||||||||||||||||||||||||||
|
愍帝(びんてい)は、西晋の第4代で最後の皇帝。諱は鄴(ぎょう)。初代皇帝・武帝の孫にあたる(在位:313年 - 316年)。
生涯[編集]
父は武帝の子・呉王の司馬晏で3男。兄に淮南王・司馬祥、弟に済南王・司馬固、済陰王・司馬衍がいる。
西晋は司馬鄴が生まれた頃、八王の乱で既に半ば崩壊しており、さらに加えて異民族の本土侵入も繰り返されて(永嘉の乱)、滅亡の危機にあった。311年に西晋の首都・洛陽は漢の劉曜・石勒・王弥らの侵攻により陥落し、叔父で第3代皇帝の懐帝が捕虜となる。この際に司馬鄴は家臣の手により河南に逃れて助かった。懐帝が捕虜となったことにより西晋は皇帝不在となって滅亡状態となり、華北や中央に残された残党が司馬鄴を擁してなおも漢への抵抗を続けた。なお、洛陽陥落の際に父の司馬妟や多くの皇族が処刑されている。
313年、懐帝が漢の皇帝・劉聡により屈辱を与えられた末に処刑されたため、その跡を継ぐ形で長安で即位して愍帝となった。しかし、洛陽陥落や漢の台頭により、西晋の威令が及ぶ範囲は長安周辺と皇族の司馬睿がいる江南のみとなっており、それらですら西晋内部で内紛が相変わらず続いていた場合も存在した。漢の劉聡は劉曜に軍を与えて長安を攻めさせ、西晋軍も各地で抵抗したが、既に弱体化していた西晋軍では最終的に対抗できず、316年に長安は陥落して愍帝は降伏する。
愍帝は劉聡の下に捕虜として連行され、かつての懐帝と同じように酒汲み係、傘持ち係などのボーイのような身分として扱われて辱められ、西晋の遺臣や遺民の多くはその慣れの果てを悲しみ、他は嘲弄したという。結局、317年に愍帝は劉聡により処刑された。享年18。
愍帝の死により、西晋は完全に滅亡した。同時に西晋の皇統だった司馬昭・司馬炎の系譜は断絶し、江南に逃れていた司馬懿の曽孫・司馬睿がこの地で東晋を建国して晋の復活を宣言した。これは西晋とは歴史的に別の王朝として区別されている。