伊賀光宗
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伊賀 光宗(いが みつむね、治承2年(1178年) - 康元2年1月25日(1257年2月10日))は、鎌倉時代前期から中期にかけての鎌倉幕府の御家人。父は伊賀朝光[1]。母は二階堂行政の娘[1]。兄弟姉妹に北条義時の継室・伊賀の方のほか、光季、光資、光重、結城朝光室らの兄弟姉妹がいる。子に娘(北条朝直室)。
生涯[編集]
通称は伊賀次郎[1]。官位は従五位下兵衛尉・左衛門尉・式部丞[1]。
妹の伊賀の方が第2代執権・北条義時の後妻にあたることから、早くから北条氏の一族として厚遇され、第3代将軍・源実朝の時代には既に側近として重用され、儀式の奉行を務めたり実朝が自ら開催した和歌の会に参列したりしている[1]。建保元年(1213年)に和田合戦が起こると北条義時に協力して武功を立てたため、戦後に甲斐岩間を所領として与えられた[1]。承久元年(1219年)に政所執事に任命される[1]。
元仁元年6月13日(1224年7月1日)に北条義時が急死すると、妹の伊賀の方と謀って伊賀氏の変と称されるクーデターを計画するも、三浦義村の協力を得られず北条政子・北条泰時らによって鎮圧され、光宗は捕えられて所領52か所全てを没収されて信濃への流罪に処された[1]。この際に出家して光西という法号を称している[1]。
翌年に北条政子が死去すると、12月になって罪を許されて鎌倉に帰還し、失領した所領も8か所が返還され、北条泰時から評定衆のひとりに任命されて幕政で重きを成した[1]。康元2年(1257年)1月25日に死去。享年80。