伊賀光重
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伊賀 光重(いが みつしげ、? - 弘長元年4月26日(1261年5月26日))は、鎌倉時代前期から中期にかけての鎌倉幕府の御家人。父は伊賀朝光[1]。兄弟姉妹に北条義時の継室・伊賀の方のほか、光季、光宗、光資、結城朝光室。甥に季村、光綱。
生涯[編集]
官位は従五位上右衛門尉・織部正・隼人正[1]。執権の北条義時と縁戚関係にあったことから重用される[1]。元仁元年6月13日(1224年7月1日)に北条義時が急死して伊賀の方・光宗らが起こした伊賀氏の変では積極的に関与し、光重は伊賀の方の娘婿である一条実雅を伴って上洛している[1]。しかし変事は北条政子・北条泰時らによって鎮圧されて失敗し、光重も捕らえられて鎮西に配流された[1]。
北条政子が死去した後の嘉禄元年(1225年)8月に罪を許されて配流先から鎌倉に帰参する事を許される[1]。その後、第4代将軍・藤原頼経の近習番として儀式の奉行や御使として重用された。弘長元年(1261年)4月26日に死去[1]。法名は光心という[1]。