武田勝親
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武田 勝親(たけだ かつちか、天正9年(1581年) - 天和3年6月19日(1683年8月11日))は、安土桃山時代から江戸時代中期にかけての甲斐武田氏の一族。武田信玄の孫に当たる。
略歴[編集]
父は武田勝頼で3男。母は北条氏康の娘・桂林院殿とされている。同母兄の武性院とは同年で同じ母の生まれのため、双子だった可能性がある。
初名は勝三(かつさん)とされ、これは幼名だった可能性もある。勝頼の3男であったことから勝三と名付けられたようである(『甲斐国志』)。別名に勝近。通称は左衛門(『系図簒要』)。
生まれた翌年の天正10年(1582年)に織田信長・徳川家康連合軍による武田征伐が行なわれて父の勝頼、母の桂林院殿、長兄の信勝らは自殺しているが、勝親は栗原氏(栗原左衛門尉)に抱き抱えられて大菩薩峠を越えて鎌倉に落ち延びたという(『甲斐国志』)。同年6月に本能寺の変が起きて信長が死去し、天正壬午の乱が勃発すると「又還住」と『系図簒要』にあることから、一時的に甲斐に帰還して居住した可能性がある。
なお、別の説では池田恒興に庇護されて摂津尼崎藤田村に入って浄土真宗本願寺派の僧侶になって善悦と号したと言われている。
勝親は非常に長命で、『系図簒要』では天和3年(1683年)6月19日に死去した。103歳という当時としては驚異的な長寿であった。現在でも落ち延びた善念寺には近世に建立されたという勝親の供養塔が残っている。
一説に天正12年(1584年)に4歳で夭折したとする説もある。また、富田村に落ち延びた後に大坂に入って織田信長と戦ったなどとする伝もあり、勝親の経歴はこのあたりが混乱や誤伝が見られている。