武田武性院
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武田 武性院(たけだ ぶしょういん、天正9年(1581年) - 天正11年3月7日(1583年4月28日))は、安土桃山時代の甲斐武田氏の一族。武性院は法名で実名は不詳。武田信玄の孫に当たる。
略歴[編集]
父は武田勝頼で次男。母は北条氏康の娘・桂林院殿とされている。異母兄に信勝。同母弟に勝親。同母姉に宮原義久に嫁いだ3女がいる。
生年の天正9年(1581年)は『甲斐国志』の3歳から逆算したもので、武田家が滅亡する1年前に生まれた男子ということになる。天正10年(1582年)の織田信長・徳川家康連合軍による武田征伐の際、武性院は勝頼らと別行動をとって渡辺嘉兵衛・瀬兵衛兄弟によって鎮目村(現在の笛吹市)に逃れて匿われ、織田・徳川の追及を逃れたとされている。
しかし天正11年(1583年)3月7日、病気により夭折した。3歳没。『甲斐国志』や『系図簒要』によると、法名は武性院斎理周哲大童子。
墓所は一町田という地で、葬られた場所に杓薬の木を一株植えて目印にしたという。後に江戸時代後期の文化年間になってその場所に立っていた木を株分けして石碑を建立したと『甲斐国志』では紹介されている。この墓は鎮目渡辺氏旧屋敷内に現存しており、杓薬塚と称されている。