北方領土

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北方四島から転送)
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北海道知床峠から見える国後島。北方四島のうち最も西の国後島は、天気が良ければくっきりと見ることができる。

北方領土(ほっぽうりょうど)は、北海道の東にある、択捉島国後島歯舞群島色丹島の4島をまとめた言い方。(実際には歯舞群島は群島であって一つの島ではないが)4つの部分から成ることや海で隔てられた島であることを強調して北方四島とも。択捉島には日本最北端の地であるカモイワッカ岬がある。日本は自国固有の領土であると主張しているが、実際にはロシアが占拠している(実効支配)。面積は合計で約5000平方キロ。その中で最大の択捉島と2番目の国後島だけで、全体の93パーセントを占めている。

歴史[編集]

日露関係」も参照

安政2年12月21日(1855年2月7日)に日露和親条約[注 1]が結ばれたとき、択捉島とウルップ島の間の国境を互いに確認し、北方領土(4島)は日本領のままとなっていた。その後、日本はロシアと明治8年(1875年)5月7日に国境を画定するための樺太・千島交換条約を結び、樺太を放棄する代わりに千島列島全域を獲得した[注 2]。ところが第二次大戦末期の1945年8月9日、ソ連は、当時まだ有効であった日ソ中立条約に違反して対日参戦し、ポツダム宣言を受諾した後の同年8月28日から9月5日までの間、ロシアによる北方四島占拠がなされた。四島全体で約1万7千人の日本人が住んでおり、当時においてロシア人はいなかった。なお、昭和26年(1951年)に調印されたサンフランシスコ平和条約においては北方領土は日本領として扱われている。このように、北方領土は一度も日本以外の領土となったことがない日本固有の領土である。ただし、日本が先住民族のアイヌから奪った土地[注 3]であるということは否定できない。

昭和31年(1956年)、平和条約締結後の色丹歯舞引渡しを明記した日ソ共同宣言に日本と当時のソ連調印したが、実現していない。

ソビエト連邦の対日参戦経緯[編集]

第二次世界大戦では、ソビエト連邦は最初期から一貫して連合国側におり、東部戦線の中心にいた。

 
1945年2月4 - 11日 - アメリカ合衆国イギリスソビエト連邦によるヤルタ会談によりソ連の日ソ中立条約破棄と対日参戦と北方四島と台湾の割譲がソビエト以外の連合国も含む総意によって決定
1945年4月6日 - ソビエト連邦が日本に対して連合国側の要請により日ソ中立条約の破棄を通告
1945年7月26日 - アメリカ合衆国、イギリス、中華民国の3国が日本に対して無条件降伏を求めるポツダム宣言を通告
日本政府がポツダム宣言を無視(拒否)
1945年8月8日 - ソビエト連邦が日ソ中立条約を破棄、日本に対して宣戦布告
1945年8月9日 - ソビエト連邦が満州国(現在の北朝鮮北部からロシア南部、中国南部など、日本陸軍の中華民国占領地)からカムチャッカ半島南端、千島列島、北海道北部にかけて、160万人弱の軍を動員し対日攻撃を開始。対する日本は約100万人で迎え撃った。
同日、長崎への原爆投下
1945年8月14日 - 日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏(どんなことをされても文句を言わないことを全世界に向けて大日本帝国の名に於いて宣言した)
1945年8月15日 - 玉音放送、終戦。マッカーサー元帥による日本軍全軍への(自衛以外の)戦闘停止命令発令。
しかしソビエト連邦軍の攻撃行為が停止されなかったため、北海道も含む対ソ戦線では以後も防衛戦闘が継続された
1945年8月19日 - 対ソ戦線で最大の日本陸軍部隊である関東軍が降伏宣言を受け入れて武装解除に応じたが、ソビエト軍の攻撃は止まらなかった
1945年8月24日 - ソビエト軍に正式な全軍停戦命令が発令されたが、現地ソビエト軍はこれを無視した
執拗な軍民問わず虐殺攻撃を続けるソビエト軍に日本軍が無条件降伏したため、多くの民間船や民間施設が一方的に襲われ、略奪、陵辱ののち虐殺などの国際法違反の戦闘行為が行われたほか、59万4千人が捕虜として1960年代まで続くシベリア抑留を受けた。
1945年9月5日 - 北方四島と満州国、朝鮮半島北部などを完全に支配下に置いたソ連軍が戦闘攻撃行為を停止した。

なお、これらの対ソビエト軍戦闘で8月15日に即座に日本軍が停戦していた場合、北海道全域がソビエト軍に占領され、数百万人がソビエト軍に虐殺されていただろうと言われている。

詳細は「ソビエト連邦による戦争犯罪」、「尼港事件」、「葛根廟事件」、「通化事件」、「敦化事件」、「真岡郵便電信局事件」、「三船殉難事件」を参照

2019年になって安倍晋三首相は日ロ平和条約の締結を目的として、ウラジーミル・プーチン大統領と北方領土問題の解決に向けた動きを見せている[1]。ロシア側としては返還すると米軍が接近してくる事が軍事的懸念事項となっている模様[2]。アメリカとしては北方領土に拠点を置く計画は今の所は無いとしている[3]。軍事的懸念事項に対しては日・露・米の3ヵ国が軍事協定を結ぶ必要があるという意見もある[4]

安倍首相としては4島のうち2島返還で決着を考えていたようだが、ロシアの世論としては1島も返還する気は無いらしく、ロシア世論を動かす程の経済協力が先決とする見方がある[5]。「戦後70年以上残された課題の解決は容易ではない」という安倍首相の言葉通り、70年以上残されるべくして残された理由が存在すると思われる。

渡航[編集]

北方領土の元住民+αは、ビザなし渡航で北方領土に渡航できる。それに当てはまらない日本人は、現在のところ、残念ながら合法的に北方領土に行くことはできない。もし本土から直接行こうものなら、ロシアの警察に逮捕されてしまう。実際、北方領土周辺海域に気付かずに侵入した地元の漁師がロシア警察に捕まえられるような事件も発生している。

サハリン経由[編集]

以下には違法ではないにせよ、それに非常に近い行為についての解説が含まれています。

一応、サハリン経由でなら行けなくもない。方法は、次の通りである。

  1. 日本で、サハリンへのビザを取得する。
  2. サハリンに渡航する。かつては稚内から直行の船便が出ていたが現在は休止中である。
  3. サハリンで、北方領土へのビザを取得する。
  4. 船便で、北方領土に渡航する。

ただし、この方法の使用は推奨されない。というのも、ビザを取得するということは、北方領土がロシアの領土であることを認めたことになるためである。このため、日本政府は、国民に、この方法で北方領土に渡航しないよう求めている。もしばれたら、外務省厳重注意を受ける可能性がある。ただし、完全に違法ではないので、犯罪とはならない。とはいえ、繰り返すが、そうすることは、北方領土がロシアの領土であると認めたことにほかならない。行くか否かは日本国民としての良心が関わってくるだろう[要出典]。いずれにせよ、早く北方領土が返還されて、誰もが合法的に、自由に北方領土に行けるようになってほしいものである。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 日本政府は日魯通好条約(下田条約)と呼んでいる
  2. 樺太放棄を建議したのは黒田清隆とされている
  3. ただしアイヌも日本人であるし、アイヌが領土の観念を持っていたかは検討の余地がある

出典[編集]

  1. 日ロ平和条約「さらに前進」 首相、プーチン氏と会談”. 日本経済新聞 (2019年1月23日). 2019年1月25日確認。
  2. 北方領土返還 プーチン露大統領、米軍基地に懸念示す”. 産経ニュース (2018年12月20日). 2019年1月25日確認。
  3. 「北方領土に戦力置く計画なし」 在日米軍トップ語る”. FNN.jpプライムオンライン (2019年1月10日). 2019年1月26日確認。
  4. 北方領土問題の元凶「ロシア包囲網」から日本はどうやって抜け出すか (5/5)”. ダイヤモンド・オンライン (2019年1月23日). 2019年1月26日確認。
  5. 頻出するフレーズ「胸襟を開いて」 押されっぱなしだった日露首脳会談の発言まとめ”. ニフティニュース (2019年1月26日). 2019年1月26日確認。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]