三浦光村
三浦 光村(みうら みつむら、? - 宝治元年6月5日(1247年7月8日))は鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府の御家人。父は三浦義村で4男。母は土肥遠平の娘で三浦泰村の同母弟。他の兄弟姉妹に朝村、長村、重村、家村、資村、胤村、重時、良賢、矢部禅尼、土岐光定室、毛利季光室、千葉秀胤室。正室は藤原能茂の娘。子に駒王丸。受領名は能登守・河内守・能登守。讃岐守護を務めた[1]。
生涯[編集]
通称は駿河三郎[1]。幼名は駒若丸[1]。幼少の頃は鎌倉幕府の第2代将軍である源頼家の遺児・公暁の門弟に列していたので、第3代将軍の源実朝が暗殺された際に公暁は義村に協力を依頼するためにこの関係を利用して使者を遣わしたといわれている[1]。
寛喜3年(1231年)4月に左衛門尉となる。寛元2年(1244年)に評定衆に任命される。しかし三浦氏は執権・北条泰時と縁戚関係があったにも関わらず、光村は第4代将軍・藤原頼経に接近して泰時没後の北条氏と敵対する[1]。寛元4年(1246年)の宮騒動では反執権派に属したものの積極的には関与しなかったために難を逃れている[1]。ところが、光村はこの宮騒動で鎌倉から京都に送還されることになった前将軍・藤原頼経に供奉して在京する行動に出たので、執権の北条時頼と三浦氏の間の対立が決定的になってしまった[1]。兄の泰村は時頼との対立を避けようとしたが、光村は対決を望んで兄弟の間で齟齬を来たすようになり、結局宝治元年(1247年)の宝治合戦では北条時頼の軍勢と武力衝突を起こして奮戦するも衆寡敵せず、泰村ら一族が逃れた源頼朝の墓所である法華堂で一族と共に自殺した[1]。この際、光村は北条側に自らの首を判別させないようにするため、脇差で自らの顔を切り刻み、終始消極的だった兄を非難してから自殺したと伝わっている。