李存勗
李 存勗(り ぞんきょく、885年 - 926年)は、五代十国の後唐の初代皇帝(在位:923年 - 926年[1])。廟号は荘宗(そうそう)。
生涯[編集]
父は太祖[1]。父は朱全忠と唐末期に覇権を争った群雄の一人で晋王の地位にあった。太祖は後に李存勗が与えた廟号である。908年に父が死去したため、太原において晋王を継いだ[1]。李存勗は勇猛果敢な武人で優れた武略を持ち、父の宿敵である後梁の朱全忠との戦いを継続し、河北の要地を奪取した[1]。一方で現在の北京に桀燕を建国していた劉守光も滅ぼした[1]。さらに契丹(遼)とも関係を修好して河北に一大勢力を築いた[1]。
923年、李存勗は魏州(現在の大同府)において皇帝として即位し、国号を唐(歴史的には後唐)とし、元号を同光とした[1]。これが後唐の正式な建国である。対する後梁は912年に朱全忠が暗殺された後は衰運にあり、荘宗は遂に同年の内に後梁を滅ぼし、首都を洛陽に定めた[1]。
こうして中原を征服して強大になった荘宗に対し、各地の諸王国は次々と使者を派遣して服属を誓ったが、現在の四川省に割拠する前蜀の後主のみは服属を拒否したため、925年に荘宗は軍を送って前蜀を滅ぼし、重臣の孟知祥を西川節度使に任命し、後唐は揚子江以北の大半を領有することになった[1]。
しかし荘宗は軍人としては優秀でも政治家としての資質には欠けていた[1]。しかも前蜀を征服して勢力を拡大した後はかえって傲慢になり、奢侈や歌舞音曲にふけって自らは国政を省みず、一切を宦官に任せるようになった[1]。このため兵士に対する給与は滞るようになり、宦官に政治を任せたことが原因で枢密使の郭崇韜が非命に倒れると河北各地で荘宗に対する反乱が勃発した[1]。この反乱に対して荘宗は養兄(李克用の養子)である李嗣源に平定を任せて軍を預けたが、その李嗣源が部下や反乱軍に擁立されて逆に荘宗に対して反乱を起こし、開封に進軍する[1][2]。
これを知った荘宗は李嗣源を自ら討伐しようとしたが、李嗣源軍は首都への補給路を断って兵糧攻めに追い込んだ[2]。このため荘宗の軍勢は急速に士気を失い、荘宗は不満を抱いた禁軍により殺害された[2]。享年42。
代わって李嗣源が明宗として即位し、光聖神閔孝皇帝と諡され、雍陵に葬られた[2]。