戚夫人

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戚夫人(せきふじん、? - 紀元前194年)は、中国末期から前漢前期にかけての女性。前漢の初代皇帝高祖側室(愛妾)で、劉如意の生母。名は戚姫(せきひめ)とも言われる[1]。「人豚」(ひとぶた)にされた女性として有名である。

生涯[編集]

劉邦の愛妾[編集]

定陶の出身[1]。劉邦の側室として愛され、その間に劉邦の3男である劉如意を生んだ[1]。劉邦は正妻の呂后との間に生まれた次男の劉盈皇太子にしていたが、この劉盈は心優しくて劉邦からは柔弱に見えたので、劉邦は頼りないと考えて劉盈を廃して劉如意を新たに皇太子にしようと画策した。これには戚夫人が寵愛され、戚夫人が劉邦に劉如意を後継者にしてくれと頼み込んだことなども一因しているとされるが、呂后をはじめ多くの重臣から劉盈の廃太子を反対されたため、さすがの劉邦も断念せざるを得ず、劉邦は戚夫人を呼び出して後継者にできなかったことを伝え、劉邦が自ら歌を歌って戚夫人に踊るように命じて悲しみを紛らわせたという。

人彘(人豚)[編集]

紀元前195年に劉邦が崩御すると、戚夫人は特に皇太后となった呂太后から皇太子の位を奪おうとしたとして憎悪され、復讐の対象とされた。そのため、戚夫人は呂太后の命令で逮捕されて永巷[2]幽閉された。戚夫人は頭を剃られて尼にされ、首に鉄の枷をはめられ、囚人の着る赭衣[3]を着せられて終日、をつく罰を科せられた。この時に『永巷歌[4][5]』という歌曲を米をつきながら戚夫人が歌ったと伝えられている。

呂太后は戚夫人をじわじわと嬲り殺しにした。戚夫人の両手両足を切断し、次に目を繰り抜き、耳をくすべてつんぼにし、薬を飲ませて啞にした。そして、ただ生きているだけの状態になった戚夫人を便所に置いて、それを「人彘」(じんてい)、すなわち人豚と呼ばせた[1]。『史記』によるとこの状態になった戚夫人はなお数日間、生きていたという[6]

呂太后は人豚になった戚夫人の姿を第2代皇帝として即位していた息子の恵帝に見せた。恵帝は最初、これが何なのかわからなかったが呂太后が戚夫人であることを明かすとショックの余り意識を失い、病気になって1年も起き上がれず、ようやく起き上がっても政務を放棄して酒と女に溺れる生涯を過ごしたという。

さらに呂太后は戚夫人の息子である劉如意を長安に呼び出して毒殺し、呂太后の復讐は完成した。

呂氏一族が滅亡して文帝即位した後、文帝は正妻より側室を寵愛していたので重臣の袁盎が「かつて呂后が戚夫人に行なった人豚のことをお忘れですか」と挙げて諫めているように、正妻と側室の差を語る際に用いられる例となった。

戚夫人が登場する作品[編集]

テレビドラマ

脚注[編集]

  1. a b c d 青木五郎、中村嘉広 編『史記の事典』大修館書店、2002年、p.518
  2. 宮女が犯罪を犯した時に幽閉する場所。
  3. 赤い衣服。
  4. ただし、この歌は『史記』には記録が無く、『漢書』に見えるので後世に戚夫人に同情した人物による創作の可能性もある。
  5. 永巷歌の内容は「子は王なのに、母は囚人、朝から春(つ)いて日暮れまで、いつも隣に死が肩を並べてる、三千里も離れているお前に、誰をやって知らせたものやら」である。
  6. 両手両足を斬られてこの姿で当時の未熟な医術で存命できるものか疑問であり(そもそも麻酔薬など当時は無い)、呂太后の悪行を誇張するために残忍なように書いている可能性がある。もしくは殺した後に遺体を凌辱したのではないかとされる説もある。

参考文献[編集]