鼠小僧次郎吉

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鼠小僧次郎吉(ねずみこぞうじろきち、寛政9年(1797年) - 天保3年8月19日1832年9月13日))は、江戸時代後期(化政期)に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯。本名は次郎吉(じろきち)。本業は鳶職であったといわれ、義賊の伝承で知られる。その死後、歌舞伎やテレビドラマの題材として多く扱われた。鼠小僧の由来は小柄で素早いことから付けられた異名である。

生涯[編集]

出身は江戸で、歌舞伎小屋で便利屋を営む家、あるいは町火消し役の家に生まれたという。10歳で木工職人として奉公に出され、その後に鳶の人足になった。だがそこで悪い遊びを覚え、酒と博打で身を持ち崩した。文政6年(1823年)に武家屋敷など28か所で盗みを働き捕縛される。ところが取り調べの際、盗みが初めてであることを自ら自供し、取り調べ側も証拠を見つけられなかったのか、初犯であることを考慮されて刺青の刑罰、追放刑に処されて命だけは助けられた。もともと5尺足らず(約151センチ)程度の小柄で貧相な体格をしていたため、疑われなかったのかもしれないが、その後も江戸に戻っては大名屋敷を中心として盗みを繰り返した。

鼠小僧が大名屋敷を狙ったのは「盗みに気付いても自尊心が強くて幕府からの追及を受けたくない大名家はそれを公にしないこと」が好都合だったのと、「屋敷内部が広くて警備に穴が多く、外部さえ突破すれば容易であること」と「屋敷の奥が金の保管場所で、しかもそこには大抵女が多くて逃げやすいこと」など好条件が揃っていたためだという。

最終的に捕縛された際、鼠小僧は厳しい取り調べを受けることになる。鼠小僧の自供ではこれまで行なった盗みは合計109回以上、被害総額は1万2000両に及んだとされる。取り調べを担当した役人は調べれば調べるだけ出てくる鼠小僧の余罪に呆れ果てて、途中で取り調べを打ち切ったと言われる。これは江戸城、つまり徳川氏の本拠を除いてほとんどの大名家が鼠小僧の被害を受けており、取り調べればその大名家にも咎が及ぶことになり、大名家の威信を守るためと罪が及ぶことで政治問題化することを恐れて打ち切ったとも言われている。

鼠小僧に出された判決は当然、死刑であった。鼠小僧は江戸市中を引き回された上で、鈴ヶ森の刑場で磔刑に処された。享年36。

処刑される前、鼠小僧は顔に薄化粧をして口紅まで塗り、よく目立つ着物を着て刑場に臨んだという。なお当時は連座が厳しく、普通なら家族にも咎が及ぶのだが、鼠小僧は両親からはその不行跡で勘当され、妻や愛人にはそれぞれ離縁状を渡していたので、連座は適用されなかったという。また、盗んだ金はほとんど生活に困窮していた庶民などに恵んでいたとされ、このような行為が鼠小僧を後年に「義賊」として持てはやすことになった。

辞世の句[編集]

天(あま)の下(した)、古きためしは、しら浪の、身にぞ鼠と、現はれにけり」(現代語訳:この世の中の昔からの例は知らないけれども、私は誰も真似の出来ない、すばしっこい鼠のような盗賊となって世間を騒がせましたよ)

この辞世は処刑される直前に鼠小僧が自ら詠んだものとされ、『天保雑記』に記録されている。

鼠小僧を扱った創作物[編集]

歌舞伎[編集]

落語[編集]

小説[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

女ねずみ作品[編集]

鼠小僧を扱ったテレビドラマ作品の中には「女ねずみ」という架空のキャラクターを扱った作品も存在する。これら作品に登場する「鼠小僧」は鼠小僧次郎吉本人ではなく、彼の娘ないしは孫娘が父ないしは祖父の処刑から数年の時を経て江戸の庶民のために「鼠小僧」の名を受け継ぎ活躍するという設定となっている。

漫画・アニメ[編集]

舞台[編集]

外部リンク[編集]