菊池寛

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菊池 寛(きくち かん、1888年1948年)は、日本の文豪。香川県の出身。

人物[編集]

本名・ひろし。香川県高松に生まれ、幼いころから歌舞伎に親しみ、中学時代には同性愛の経験があった。法政大学などをへて第一高等学校へ入るが、同性愛の相手が他人のマントを無断借用した罪をかぶる「マント事件」のために退学、事情を知る教師のはからいで京都帝国大学文学部英文科専科に進み、のちに高校卒業資格検定に合格して本科に編入した。在学中は上田敏の教えを受けた。卒業後、時事新報社の記者になるが、一高時代の友人の芥川龍之介久米正雄らと第四次『新思潮』を創刊し、「藤十郎の恋」「無名作家の手記」などを発表した。

大正9年、婦人雑誌に「真珠夫人」を連載開始すると絶大な人気を呼び、流行作家となる。新聞や雑誌に多くの通俗小説を連載する一方、「啓吉もの」と呼ばれる、菊池自身を主人公とした私小説や、「恩讐の彼方に」「忠直卿行状記」などの歴史短編も書いた。『受難華』を書く際には、30冊の英文の小説を読んで参考にしたというが、その一方、川端康成佐藤碧子らによる代作も多かった。1923年には雑誌『文藝春秋』を創刊し、久米、芥川とともに文壇の中心人物の地位に躍り出る。

昭和2年に芥川が自殺、昭和9年(1934)に友人の直木三十五が病死し、菊池は文藝春秋社の事業として、芥川賞直木賞を設け、数年後には菊池寛賞も設置した。戦時中は大映の社長を務めるなどして、戦時体制に協力したため、敗戦とともに文藝春秋社を解散したが、同社は佐佐木茂索らによって文藝春秋新社として再建され、菊池没後の1949年に芥川・直木賞も復活し、菊池寛賞も継続して授与されている。