松倉城 (越中国)

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松倉城(まつくらじょう)とは、現在の富山県魚津市鹿熊にかつて存在した日本である。

概要[編集]

魚津市街の南東およそ6キロ、鹿熊集落の城山にかつて存在した山城である。

この城は鎌倉時代末期から南北朝時代に移り変わる元弘年間(1331年 - 1334年)に椎名孫八が築城したと伝えられている。その後、城主は足利尊氏の一族である桃井直常に代わったが、後に椎名氏の下に復した。

戦国時代永禄12年(1569年)に当時の城主・椎名康胤は、当時越中国に勢力を拡大していた上杉謙信に叛き、甲斐国武田信玄に通じた。このため元亀2年(1571年)に謙信率いる越後国の上杉軍が侵攻して松倉城は落城する。その後、城主には謙信の重臣・河田長親が入ったが、謙信が死去すると織田信長の侵攻が激しくなり、さらに河田が病死するという事態も重なり、天正10年(1582年)に信長の重臣・柴田勝家佐々成政によって攻略された。本能寺の変後の混乱によってすぐに上杉氏方に復帰した。

その後、天正11年(1583年)に城将須田満親は成政に城を明け渡して信濃の海津城に転出した。また成政も富山の役で前田・上杉軍に挟撃されたうえ秀吉の大軍の前に降伏した。恩賞で前田利長に射水郡・砺波郡・婦負郡が与えられた。大坂に留め置かれた成政は九州征伐の後、天正15年(1587年)に肥後へ移封されたが一揆が発生し没落した[1]

文禄4年(1595年)まで上杉家により松倉金山の運上金が大坂の豊臣家へ送られている。同年、蒲生騒動が起こり前田利長に残る新川郡が加増され、上杉家の越中衆から郡内の諸城を受け取る[2]前田氏は麓の鹿熊にあった城下町を魚津へ移す。松倉城は慶長年間に廃城となったと見られている。

構造[編集]

この松倉城は相当な堅城だったようで、縄張りを見るとこの松倉城を中心に、東の峰続きに天神山城坪野城が、西の峰続きに升方城水尾城が配置されていたと見られており、さらに松倉本城の足下には金山城、遠く富山湾岸には北陸道の抑えとして魚津城が置かれていた模様である。これらを総称して松倉城塁群と呼び、堅固な防備体制が敷かれていた模様である。

鹿熊集落から急坂を2キロほど登った山頂に本丸跡や土塁、堀跡が存在する。これらは富山県の史跡に指定されており、本丸跡は東西およそ45メートル、南北31メートル余りで、この辺りからは北方の眼下に魚津市街や日本海、西に呉羽山、東は新潟県との県境を成す山々を見渡すことができる。また鹿熊から角川沿いを5キロほどさかのぼった山間部には江戸時代初期から中期にかけて掘られたという松倉金山跡がある。金山が開発されていた当時は「松倉千軒」と呼ばれて旅人の宿、社寺が軒を連ねるほど繁栄していたと記録にはあるが、現在は石垣や礎石が残るのみである。

アクセス[編集]

脚注[編集]

  1. 佐々家は養子や兄の一族が細川氏・水戸徳川氏・上杉氏などで存続。
  2. 「加賀藩文書」(前田育徳会など)

外部リンク[編集]