青地元珍

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青地 元珍(あおち もとたか、永禄3年(1560年)‐ 寛永10年9月29日1633年10月31日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将織田氏蒲生氏前田氏に仕えた。

生涯[編集]

幼名は千世寿。通称は内匠助、四郎左衛門尉。諱は光綱ともいわれる。諱の元珍の読みは『朝倉家禄軍談』によるものである。

父は青地茂綱。伯父に蒲生賢秀。従兄に蒲生氏郷がいる。元亀元年(1570年)9月、父が森可成織田信治らと共に朝倉義景浅井長政連合軍と宇佐山城で戦い戦死したため、家督を10月6日になって相続することを織田信長から許された。この際、従来通り領地、与力、家来などは安堵された。元亀2年(1571年)12月、信長の命令で佐久間信盛の与力として付けられた。

元亀4年(1573年)の槇島城の戦い天正4年(1576年)の天王寺砦定番などを佐久間信盛の与力として務めている。その後は石山合戦において大坂方面に在陣した。

天正8年(1580年)、信長の怒りを受けて佐久間信盛が追放されると、近江衆の一員として信長直属の旗本に列した。天正9年(1581年)の天正伊賀の乱に参加し、さらに安土城における爆竹の人数にも名を連ねている。

天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が死去すると、信長の3男・織田信孝に仕えた。天正11年(1583年)に信孝が自害すると、従兄の蒲生氏郷の下を頼り、氏郷の子・秀行の時代まで蒲生氏に滞在している。なお、蒲生家では家臣としてではなく、客賓として迎えられていた。

後に前田利長に仕え、寛永10年(1633年)9月に74歳で没した。