青地茂綱
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青地 茂綱(あおち しげつな、? ‐ 元亀元年9月20日(1570年10月19日))は、戦国時代の武将。六角氏、次いで織田氏の家臣。
生涯[編集]
官途は式部少輔。受領名は駿河守。
父は蒲生定秀で次男。長兄に蒲生賢秀、甥に蒲生氏郷がいる。近江国栗太郡青地の国衆・青地道徹の養子になった。南近江の守護大名である六角義賢に仕え、青地荘15村などに在地する22士の旗頭となった。
永禄6年(1563年)2月11日に茂綱が率いた兵力は1500騎という記録があり、これが事実なら相当な実力者だったようである。また、観音寺騒動の余波から六角氏式目が制定されるが、その式目連署者20人の中に茂綱は名を連ねている。
永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始し、六角家がこれにより没落すると信長に仕えた。『信長公記』では永禄12年(1569年)の伊勢大河内城攻めに参加している。
『信長公記』によると、元亀元年(1570年)9月20日に信長が三好三人衆と戦うために畿内に進出していた隙を突いて、越前の朝倉義景が北近江の浅井長政と結託して宇佐山城に侵攻。宇佐山城主の森可成、信長の弟・織田信治、そして茂綱らはわずか数千の兵力で浅井・朝倉連合軍3万近くを迎撃し、奮戦したものの戦死したという。享年については41歳という説があり、これが事実だと賢秀より年上で、定秀の庶長子だった可能性がある。
信長は茂綱の忠死を評価し、10月6日に息子の千代寿(後の青地元珍)が幼少であったにも関わらず、領地と与力・家来などは従来通りの相続を許している。