長浜藩

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長浜藩(ながはまはん)とは、江戸時代初期のごくわずかな期間に近江国に存在したである。藩主家は譜代大名内藤氏。石高は4万石。藩庁長浜城。現在の滋賀県長浜市に存在した。

概要[編集]

もともと、この地は今浜と呼ばれていた。天正元年(1573年)8月に浅井長政織田信長に滅ぼされると、浅井氏の旧領は羽柴秀吉に与えられた。秀吉は信長の「長」をもらってその地を「長浜」と改めた上で、天正2年(1574年)に長浜城の築城、城下町の建設を行なった。

天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長が没すると、清須会議を経て秀吉は長浜を去り、新たな長浜城主には柴田勝家の甥で養子柴田勝豊が入る。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで勝豊は勝家を裏切って寝返るが、間もなく病死した。その後、信長のもとで名人久太郎と謳われた堀秀政佐和山城支配下となり、天正13年(1585年)に山内一豊が2万石で入った。

天正18年(1590年)の小田原征伐により、一豊は遠江国掛川城主として移封となり、その後は五奉行石田三成の支配下に置かれる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで石田三成は西軍の首謀者となり、戦後斬首に処されて石田氏は滅び、この地は徳川氏の支配下に入った。慶長11年(1606年)、駿河国駿府藩から内藤信成が湖北3郡4万石余を徳川家康に与えられて入封したのが、長浜藩の起源である。慶長17年(1612年)に信成は死去し、息子の内藤信正が第2代藩主となる。

元和元年(1615年)、大坂の陣豊臣氏が滅亡した後、信正は摂津国高槻藩に移封となり、ここに長浜藩は廃藩となった。長浜領は譜代大名でも最高位の彦根藩主・井伊直孝に加増として与えられた。

長浜は北陸道を抑える要衝であり、家康は北陸の大藩である前田氏が豊臣氏と通じるのを恐れて内藤氏を入れたのであるが、豊臣氏が滅んだので長浜の価値が薄れたので高槻に移したのだと言われている。

歴代藩主[編集]

内藤家

譜代。4万石。

  1. 内藤信成(のぶなり)〈従五位下、豊前守〉
  2. 内藤信正(のぶまさ)〈従五位下、紀伊守〉