足利季世記

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足利季世記(あしかがきせいき)とは、戦国時代史料である。

概要[編集]

著者・成立年代[編集]

著者は不明。ただ、この著は『細川両家記』や『公方両将記』とよく似ている記述があるため、恐らくこれらを参考に書いたのではないかと見られている。最終巻が元亀2年(1571年)までなので、それ以後なのは確実で、『細川両家記』が成立した元亀4年(1573年)以後だと考えられる。

別称は『細川家略記』(ほそかわけりゃくき)。「季世」とは、「足利氏の「季(末)の世」」を表していることからの名称と見られる。

内容[編集]

全8巻。この手の軍記には珍しく、1巻ごとにその中心となる題名を付けている上、対象となる年代まで挙げている。応仁の乱後の京都畿内における動乱を中心にして描いた年代記的な軍記である。『細川家略記』と称されるのは、恐らく足利氏が没落して管領細川氏が権力を掌握していた時期があるためではないかと思われる。

  • 1巻 - 畠山記(長享元年(1487年)から明応2年(1493年))。
  • 2巻 - 舟岡記(永正元年(1504年)から永正16年(1519年))。
  • 3巻 - 高国記(永正16年(1519年)から享禄4年(1531年))。
  • 4巻 - 三好記(享禄4年(1531年)から天文19年(1550年))。
  • 5巻 - 勝軍地蔵軍記(天文20年(1551年)から永禄4年(1561年))。
  • 6巻 - 久米田軍記(永禄5年(1562年)から永禄11年(1568年))。
  • 7巻 - 義秋公方記(永禄11年(1568年)から永禄12年(1569年))。
  • 8巻 - 野田福島合戦記(元亀元年(1570年)から元亀2年(1571年))。

室町幕府第9代将軍・足利義尚近江六角氏攻めから始まる。最終的には元亀2年(1571年)の河内国守護畠山昭高守護代遊佐信教に殺害された事件までが描かれている[注 1]

巻1では、明応の政変までの経緯。巻2では永正の錯乱による細川政元殺害とその後の一連の動乱(両細川の乱)、船岡山の戦い、そして大内義興の帰国による動乱再開までの経緯。巻3は両細川の乱の再開と細川高国の盛衰、そして死去までの経緯。巻4は高国を倒した細川晴元の盛衰と没落、そして三好長慶の台頭から足利義晴病死の経緯、巻5は細川晴元や足利義輝の帰京と六角義賢と三好長慶の戦いの経緯、巻6はその六角氏と三好氏の戦いの中で、久米田の戦いで長慶の弟・実休が戦死し、戦いには勝利して雪辱を晴らしたものの、三好義興安宅冬康など三好一族の死が相次ぎ、長慶も死去して三好氏は没落。そして永禄の変で足利義輝が松永久秀に暗殺されるまでの経緯。巻7は義輝の弟・義昭織田信長に奉じられて上洛し、信長が中央に政権を確立し、それに反発する三好三人衆が信長の留守をついて本圀寺の変を起こすまでの経緯、巻8は三好三人衆を討つために、信長が出陣して野田・福島の戦いが起こり、これを機に石山戦争が起こり、信長は信長包囲網で危機的状況に陥り、朝倉義景と和睦して撤退するまでの経緯である。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 昭高が殺害されたのは天正元年(1573年)なので明らかな誤りで、殺害した人物も遊佐信教ではなく遊佐某と書いている。

出典[編集]

参考文献[編集]