ジーコ

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サッカーボール.jpg ジーコ
選手情報
本名 アルトゥール・アントゥネス・コインブラ
Arthur Antunes Coimbra
英字表記 Zico
生年月日 1953年3月3日(71歳)
出身地 ブラジル
身長 172 cm
体重 72 kg
ポジション ミッドフィールダー
クラブチーム
1992-1994 鹿島アントラーズ
代表チーム
1976-1986 ブラジル
監督チーム
1999
2002-2006
鹿島アントラーズ
日本
サッカーボール.jpg
69
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ジーコ(Zico、1953年3月3日 - )はブラジルサッカー選手、監督。元サッカー日本代表監督としても知られる。

プレースタイル[編集]

ブラジルスタイルの抜群のテクニックを持ち、ドリブル、パス、シュートの三拍子を持ち合わせた1980年代の代表的な10番。右足から繰り出される長短のパスの正確さは世界最高峰で、前線に張る選手、背後から飛び出す選手を問わず、絶妙のタイミングでパスを飛ばす。無論プレースキックも大きな武器だった。また、得点能力はFWを凌駕するほどで、FWの後ろから飛び込むダイレクトプレーを始め、常に得点を狙う攻撃的MFとして活躍した。身体能力の面では計画的なフィジカル強化によって、強靭な肉体も併せ持っていた。

ジェフユナイテッド市原のDFとして対戦経験もある宮澤ミッシェル曰く「ボールの捨て方もうまかった選手」。これは、エースであるジーコには相手選手の何人もの激しいプレッシングが襲いかかり、ボールを回さざるを得なくなること(これを「捨てる」と表現)場面も多々あったが、ジーコはボールをそのまま下げるより、むしろ無理な体勢からでも相手バックラインの隙間を狙ったスルーパスを狙い、結果的に走り込んだFWやサイドMFへのアシストにつながることが多かったからである。

サッカー史でも最高レベルのテクニックを持っているものの「テクニックはロナウジーニョのほうが上だ。しかし勝利に結びつくプレーは自分の方が上だ」と自己評価するように、ロナウドディエゴ・マラドーナのような個人技が主の選手ではなく、味方を活かすプレー選択の確かさと敵の弱点を瞬時に見抜く卓越した戦術眼や、得点に結びつく動きの質の高さに最大の特徴がある。

日本での評価[編集]

飛躍的に向上した日本サッカー文化への貢献とネームバリューから、日本では「サッカーの神様」と呼称される事も多い。ただしジーコ自身はカトリック信徒であるため、日本の宗教観念を理解してはいるものの、この呼称を好ましくは思っていない(キリスト教圏で、「○○の神様」に該当する表現は「○○の守護聖人 (Patron Saint)」)。

日本国外での評価[編集]

2003年には母国ブラジルで過去30年で最も輝いた選手としてジーコが1位に選ばれた。ブラジル国民の大半がインターネットなどで投票し、2位のロナウドとはダブルスコアの大差であった。これは、攻撃的MFとしてプレーしながらロマーリオに次ぐブラジル歴代代表4位の66得点(88試合)の記録を持つことも1位に選ばれた要因のひとつと考えられている。また、サッカー日本代表の親善試合でイギリス遠征中、ジーコやスタッフの待機する控え室にデビッド・ベッカムが「少年時代のヒーローだった」と正装姿で訪問したり、ブラジル代表アドリアーノパルマでのチームメイトだった中田英寿に「ジーコのサインが欲しい」と交渉したりと、現代のスーパープレイヤー達も崇拝する名実共にサッカー界の英雄であり、その知名度ゆえ各国のメディアに対する発言力も大きい。

トルコでは、フェネルバフチェの監督として、就任1年目にしてトルコリーグを制覇し、また翌年には同クラブ史上初めてUEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメント進出、ベスト8まで進むなど、選手としてだけでなく指導者としても大きな成功を収めた。そのためフェネルバフチェのサポーターからは、本名のアルトゥールとつづりの同じ伝説の王にちなんで「アーサー王」(King Arthur)の愛称でも呼ばれている。

エピソード[編集]

  • Jリーグ引退時「ジーコはあたしの青春だった」とカメラの前で絶叫したジーコファンがいた。
  • 1999年、書きおろしの『My Life in Soccer』が、高校2年生の英語教科書に8ページにわたって登場。
  • 夫婦仲は睦まじく、取材中である事を妻サンドラが知らず夫に用事を言いつけると「かしこまりましたマダム」と恭しく一礼、一旦席を外して雑用を手伝っていた。

語録[編集]

  • 「もう私のセレソンでの仕事は終わりました。これからはブラジルを愛する一サポーターとして、彼らの活躍を祈るまでです」
  • 「気にすることはありません。私はワールドカップでPKをはずしたことがあります」
  • 「シュートはゴールへのパスです」
  • 「8歳の頃からサッカーに親しんできた私が、最初のスパイクを手にしたのは、13歳のときでした。自分のスパイクを持つなんていうのは夢でした。だから、スパイクを貰ったときは、本当に嬉しかった。真新しいスパイクを履いてみると、自分に不可能なプレーはないように思われました。私にとってスパイクは、魔法の靴だったのです。しかし、私がサッカーの指導をするために辿り着いた異国ニッポンのロッカールームには、泥の付いたままのスパイクが、無造作に転がっているではありませんか。私は非常に悲しくなりました。そして、同時に怒りが込み上げてきたのです。『来週までに、ここにあるスパイクを、みな磨いておきなさい』 私はそう言った後、宝物のように大切に履きつづけてきた古いスパイクをカバンから取り出して、靴クリームで丁寧に磨き始めました。驚いたのは周りにいた選手たちです。まさか、私がスパイクを磨くとは思ってもいなかったのでしょう。次の週からは、彼らの磨き抜かれたスパイクで、どのボックスも輝いて見えました。私はサッカーで名声を得ることができました。でも今なお、スパイクをサッカーの心と思い、感謝の気持ちで磨くことに変わりはありません。そして、初めてスパイクを貰ったときの、あの感動を忘れることは出来ません」

クラブチームの統計[編集]

年度 リーグ 試合 得点 試合 得点
鹿島 リーグ Jリーグ杯
1992 J - - 10 6
1993 - 16 9 3 1
1994 - 7 5 0 0
通算 23 14 13 7
総通算 23 14 13 7

代表チームの統計[編集]

ブラジル代表
試合 得点
1976 9 6
1977 7 6
1978 11 3
1979 5 5
1980 5 4
1981 12 10
1982 11 8
1983 1 0
1984 0 0
1985 5 3
1986 5 3
通算 71 48

外部リンク[編集]