逆磔

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逆磔(さかさはりつけ、ぎゃくはりつけ)とは、日本処刑方法のひとつである。逆さ磔とも言う。数ある磔刑の中でも最も残虐な処刑と言われている。

概要[編集]

この磔は読んで字のごとく、処刑する対象者を磔柱に逆にして縛り付け、それで放置する処刑法である。簡単な処刑法であるが、実は最も残虐である。このまま放置すれば対象者はやがて身体の全ての血液が頭部に下りてきて、顔が赤く腫れ上がって苦悶の表情が浮かび始める。そのまま放置しておけば、などのあらゆる部分から血が流れ出し、最後は眼球まで飛び出してくる。そして死に至るのである。死に至るまでは数日を要するとされるが、対象者の体力や年齢、生命力など個人差によって少なくとも3日間は地獄の苦しみを味わうという。つまり、3日3晩は地獄状態というわけである。対象者が死んだとき、身体じゅうの穴という穴から血が噴き出て眼球まで飛び出して絶命した姿は、恐ろしくてとても正視できるものではないという。

採用例[編集]

十二使徒の一人であるペトロはこの逆磔で殉教したと伝えられている。しかし、日本においては採用されること自体が少なかったという。この方法が採用された有名なものが天正3年(1575年)の岩村城の戦いにおける武田勝頼の家臣・秋山虎繁とその妻・おつやの方である。織田信長武田信玄同盟を結んでいたが、信玄は浅井長政朝倉義景ら反信長勢力と同盟を結んで信長との同盟を破棄し、西上作戦を展開して東美濃岩村城を信長から奪取した。このとき、岩村城を奪取したのが秋山であり、しかも秋山は当時、岩村城を女性ながら守備していたおつやの方を自らの妻として奪い取ってしまった。このおつやの方は信長の叔母であったため、信長の恨みと憎悪はかなりのものであり、信玄が死去して勝頼が武田氏を継承し、さらに長篠の戦いで勝頼が信長・徳川家康の連合軍に大敗して勢力を急速に衰退させると、信長は嫡子信忠を岩村城に差し向け、秋山は必死に抵抗したが勝頼からの援軍が間に合わずに信長に降伏することを余儀なくされる。信長は秋山、おつやの方を岐阜城下に連行し、まずは秋山を逆磔にして4日間をかけて処刑した。その後におつやの方を長良川河畔に引き立てて逆磔に処して見せしめにしたという。この際におつやの方は苦しみの中で「いずれ信長も、苦しみながら死ぬことになろうぞ」と言い捨てて苦しみながら絶命したという[1]

脚注[編集]

  1. 秋山と同時に逆磔に処されたともされている。また、史料によっては単なる磔、あるいは斬首ともされている。

関連項目[編集]