狩野介
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狩野 介(かのう の すけ、? - 永禄12年12月6日[1](1570年1月12日))は、戦国時代の武将。後北条氏の家臣。同族に泰光がいる。
略歴[編集]
初めて史料に見えるのは天文5年(1536年)閏10月である[2]。このことから、北条氏綱に仕えていたことがわかる。
天文14年(1545年)には駿河国吉原城の城将を務め、同年の河東一乱で今川義元が上杉憲政・上杉朝定らと連携して北条氏康を攻めた際、今川軍の侵攻を受けて後退した。天文19年(1550年)12月には武蔵松山城の城将を務めた[2]。
永禄2年(1559年)の役帳では松山衆筆頭の地位にあり、所領も821貫文余とそれなりの高禄であった[2]。
永禄12年(1569年)12月、前年に駿河侵攻を開始し、今川氏真を追い出すも徳川家康や北条氏政らの反撃を受けて甲斐国に撤退していた武田信玄は、捲土重来を期して武田勝頼を総大将、武田信豊、山県昌景らを大将として駿河に侵攻し、北条方の駿河蒲原城を包囲攻撃した。この際、狩野介は蒲原城に援軍として派遣されたが、城は武田勝頼によって落とされ、狩野介は北条綱重、北条長順、清水新七郎(太郎左衛門)、笠原為継、荒川長宗らと共に戦死した[2]。
ただ、『清水正花戦功覚書書写』によると、永禄3年(1560年)12月に上野国高山城が長尾景虎に攻められた際に、狩野介が戦死したとあるため、これが事実ならば、永禄3年までの狩野介は父、永禄12年に戦死した狩野介はその息子であった可能性もある。