狩野泰光
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狩野 泰光(かのう やすみつ、? - 天正18年6月23日(1590年7月24日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏の家臣。官途は大膳亮、受領名は飛騨守と称した[1]。
略歴[編集]
同族に狩野介がいるが、系譜関係などは不詳。
弘治元年(1555年)2月から史料に初めて見られるので、北条氏康に仕えていたのがわかる。翌3月には評定衆に任命され、永禄11年(1568年)2月まで11点の北条家裁許朱印状に署判しており、この時期の北条家における中心的な官僚であったことがわかる。武蔵国勝沼の三田氏、北条氏照が継承した武蔵由井領の領域支配担当の奉行などを務めた。永禄2年(1559年)の「役帳」では石巻家貞を筆頭とする無役の御馬廻衆に属しており、所領は513貫文余を領していた[1]。永禄9年(1566年)には飛騨守と称している[2]。
永禄11年(1568年)2月以降に泰光の名が史料で確認できなくなることから、従来はこの頃に死亡していたと見られていた。しかし永禄12年(1569年)11月から北条氏照の宿老としてその名が見える狩野一庵宗円(かのういちあんそうえん)は泰光の後身と推測されている[2]。
そうなると、泰光は以後も存命して氏照の側近として活動していたことになる。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐の際には、主君の氏照が小田原城に籠城したため、泰光は氏照の居城である八王子城の守備を任された。そして豊臣軍が八王子城に侵攻すると防戦したが、6月23日の落城とともに戦死した。法名は月山宗円法眼[2]。