阿閉貞征
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阿閉 貞征(あつじ さだゆき、? - 天正10年6月16日(1582年7月5日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。浅井氏、次いで織田氏の家臣。近江国伊香郡山本山城主。仮名は万五郎。受領名は淡路守。子に貞大。
生涯[編集]
最初は北近江の浅井長政に仕え、伊香郡の山本山城主を務めていた。元亀元年(1570年)の姉川の戦いに参加し、以後も小谷城の前衛として守備を務めたが、天正元年(1573年)に浅井長政が織田信長に押されるに至り、羽柴秀吉の調略を受けて織田方に寝返った。
以後は信長の旗本として所領を安堵されたが、同じ近江の長浜城主となった秀吉とは不仲で、秀吉と領地の境界をめぐって争ったりもした。しかし秀吉を重用していた信長からはほとんど聞き入れられなかったという。天正元年(1573年)の朝倉義景征伐、天正2年(1574年)の伊勢長島一向一揆攻めなどに従軍した。
天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、光秀に加担して秀吉の長浜城を攻め落とした。しかし秀吉が山崎の戦いで勝利して光秀が殺されると、秀吉の追討を受けて捕縛され、子の貞大ら一族もろとも処刑された。