波多野宗貞
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波多野 宗貞(はたの むねさだ、? - 天正7年5月5日(1579年5月30日))は、戦国時代の武将。波多野氏の一門で家臣。
生涯[編集]
丹波国を支配していた波多野家の庶流の一族で、父は波多野宗長という。
『兼見卿記』によると、天正4年(1576年)1月、織田信長から丹波平定を任されていた明智光秀に叛き、その陣営を襲って敗走させたという。この際、波多野宗家の波多野秀治はまだ光秀に属していたので、宗貞とその父の宗長の暴走とする説もある。しかし、後に秀治も信長・光秀に叛いた。
以後、信長に再度の丹波平定を命令された光秀の攻撃に対し、居城の氷上城を守備して懸命に戦うも、天正7年(1579年)5月に遂に落城し、父と共に自害した(『細川家譜』)。