林家こん平

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが林家こん平の項目をおカタく解説しています。

林家 こん平(はやしや こんぺい、本名:笠井 光男〈かさい みつお〉、昭和18年(1943年3月12日 - 令和2年(2020年12月17日[1][2][3] )は、日本の落語家新潟県刈羽郡千谷沢村(現・長岡市[4])出身[5][注釈 1]。愛称は「こんちゃん」[注釈 2]出囃子は『佐渡おけさ』。血液型はA型。

来歴[編集]

新潟県千谷沢村(現在の長岡市小国地区)で農家の子として生まれる。農家で育ち、中学卒業と同時に上京。昭和33年(1958年)に当時、爆笑王で知られた初代林家三平に師事。昭和41年(1966年)には二つ目ながら「笑点」の大喜利メンバーとなり、6年後に真打ちに昇進する。郷里である新潟の話題や、時事ネタを取り入れた高座、師匠譲りの型破りな高座などで人気を博した。三遊亭小遊三と「らくご卓球クラブ」を結成したり、世界ベテラン卓球選手権にも出場したりしている。著書もある。

昭和55年(1980年)の師匠の死後は、37歳の若さでしかも所属していた落語協会の分裂騒動の直後という難局の中で、三平一門を率いて林家正蔵(師匠の息子)、林家たい平らを育てた。また、落語協会では理事などを歴任するが、後述の病気もあり2006年4月に相談役となっていた。演芸番組笑点』において、放送開始当初から長らく大喜利メンバーの一人だったが、後述の病気により約1年間の休演。弟子のたい平の代理出演を経た後、降板。後任として正式にたい平が出演し、現在も継続している。

スタイル[編集]

地方巡業のときの口上挨拶では「新潟県生まれの〇〇育ち」(〇〇は巡業先の地名)と言ってリップサービスし、「なお、私の帰りの鞄にはまだ若干の余裕がございますので…」と言って笑いを取る。そうかと思えば、「ご当地出身力士の四股名」というお題では、「〇〇出身なので〇〇市民会館山と名付けました。」と答え、司会者が「で、どうでしたか?」と聞くと、「ただ突っ立ってるだけで見かけ倒しに終わりました」と答えて、ほかのメンバーから袋だたきにされ、司会者は「わあー、なんて失礼なことを言うんだ。おーい山田君、こんちゃんの全部持っていって」と言って座布団が全部没収される、会場は笑いに包まれ、司会者は「では笑点これでお開きにしたいと思います。」と言って番組が終わる。

晩年[編集]

晩年は病気の連続であった。平成16年(2004年)に体調が悪化して笑点をしばらく休演した(このときは声帯を痛めたのみと見られていた)。しばらくは病気が何なのかすらわからない時が続き、翌年3月になって多発性硬化症であることが判明した。これは神経の難病で、落語家の命綱ともいえる声を奪われて言葉が不自由になり、それにより平成18年(2006年)には40年間レギュラーを務めた笑点も正式に降板した。病気に悲観して自殺騒動を起こしたこともあったという。高座復帰を目指してリハビリに励んだ成果のためか、声が出るまでに回復して活動を再開できるまでになった。しかし、多発性硬化症に加えて糖尿病脳梗塞(平成31年4月発病)なども患った。糖尿病はかなり悪化して左足の壊死が進んでおり、指を切断せざるを得なくなり、一時は心肺停止にまで陥ったという。脳梗塞のほうは小脳梗塞で、手術はせず投薬治療のみであった。自らの闘病生活を体験にして講演会も実施し、2020年東京パラリンピックの応援大使にも任命され、令和元年(2019年8月には小池百合子とともにパラリンピックのイベントに出場していた。

令和2年(2020年)4月に体調を崩して入院し、一時は危機的状態になるも持ち直して退院したが、この際に「あと数か月です」と余命宣告を受けていたという。こん平は自宅で最期を迎えたいとして終末医療を選択し、体調は徐々に衰弱していった。しかし見舞い客には元気で応じて、亡くなる2日前まで意識もあったという。12月17日に4人の子供ら親族に看取られて、誤嚥性肺炎のため東京都の自宅で死去した。77歳没。葬儀12月19日に行われ、子供や孫、ひ孫ら親族に加え、弟子の代表として林家うん平だけが参列した。

なお、こん平の孫(死没時大学4年生)が落語研究会に入っており、落語家としてデビューする予定だったが、こん平はそれを見ることはなかった。

伝説[編集]

1985年の夏、笑点の徳島公演が行われることになったが、徳島入りする際に一行(当時は桂歌丸、5代目三遊亭圓楽、古今亭朝次、初代林家木久蔵、三遊亭楽太郎、山田隆夫)はスタッフと共に羽田から伊丹を経由する予定だった。しかし、乗る予定だった飛行機が悪天候で遅れており、別の便に振り替えようと検討していたところ、こん平本人が「予定通りの便で行こうよ」と言ったため一行は本来の便に乗ることになったが、その振り替え先の便が御巣鷹の尾根に墜落し多数の死者を出したあの日航機123便だったため、こん平の一言がなければ笑点という番組自体が敢え無い形で終わってしまう可能性があった。このため、こん平は笑点を救った男として伝説になり、現在に至るまで語り継がれている。

なお、番組スタッフの一部は振り替え先の便に乗り、墜落事故の犠牲になってしまったのであった。

一門弟子[編集]

直弟子[編集]

この節は執筆の途中です この節はまだ執筆途中です。加筆、訂正して下さる協力者を募集中!

初代林家三平門下より移籍[編集]

移籍後に破門[編集]

色物[編集]

廃業[編集]

出演[編集]

テレビ番組[編集]

構成作家担当[編集]

テレビドラマ[編集]

ラジオ番組[編集]

CM[編集]

二木の菓子と二木ゴルフは、弟子の9代目林家正蔵(前名こぶ平)と2代目林家三平(前名いっ平)が後継者である

同じまるか食品のペヤングで、山田隆夫と立川志の輔がソース焼きそばのCMに出演している。

映画[編集]

レコード[編集]

  • お客様は神様です/○か×か(やってみなけりゃわからない)(1973年) ※共演:三沢ナミ
  • コシヒカリ音頭/こん平音頭(1979年11月) ※共演:三田ゆかり。日本コロムビアのヒット賞を受賞[6]。「コシヒカリ音頭」は後に演歌女子ルピナス組がカバーした。
  • どんぶり音頭/乗んなせえや音頭(1982年6月)

著書[編集]

  • チャランポラン闘病記〜多発性硬化症との泣き笑い2000日(2010年講談社) ISBN 9784062161275

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. 本人いわく、出身地は「チャーザー村」だが、正しい読み方は「ちやざわむら(千谷沢村)」。
  2. 主に「笑点」の司会の三波伸介、5代目圓楽、歌丸がこん平をこう呼んだ。

出典[編集]

  1. “林家こん平さん死去 77歳 笑点「チャラーン」で人気”. デイリースポーツ. (2020年12月21日. https://www.daily.co.jp/gossip/2020/12/21/0013954608.shtml 2020年12月21日閲覧。 
  2. “落語家の林家こん平さんが死去”. 一般社団法人共同通信社. (2020年12月21日. https://this.kiji.is/713638380105203712 2020年12月21日閲覧。 
  3. 林家こん平 訃報”. 一般社団法人落語協会 (2020年12月21日). 2020年12月21日確認。
  4. “難病リハビリ中の林家こん平さん、故郷で「チャラーン!」”. yomiDr. (読売新聞社). (2015年8月10日. http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=122389 2015年8月10日閲覧。 
  5. 1999年6月13日放送の『笑点』第1669回の「私のふるさと」にて。
  6. 林家 こん平(はやしや こんぺい)、落語協会。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]