最上義智
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最上 義智(もがみ よしとも、寛永7年(1630年) - 元禄10年3月9日(1697年4月29日))は、江戸時代前期から中期にかけての旗本。交代寄合、後に高家。最上家の第14代当主。最上義俊の子。
生涯[編集]
父は出羽山形藩主、近江大森藩主を務めた最上義俊。曾祖父に戦国大名で有名な最上義光がいる。通称は源五郎。号は玄空。正室は松平乗寿の養女。継室は奥平忠昌の養女。3番目の継室が右大臣・西三条実条の次女。子に義雅、義賢、2人の娘がいる。官位は従五位下侍従、駿河守。
寛永7年(1630年)に生まれたが、その翌寛永8年(1631年)に父が若死にしたため、わずか2歳で家督を相続することになる。ところが幼少のため、大森藩1万石のうち、5000石を江戸幕府に返上し、義智が成人した際に元に戻すという約束で大森に住むことを許され、この時点で最上家は大名ではなく旗本に転落した。
寛永13年(1636年)8月15日、第3代征夷大将軍・徳川家光に初めて謁見し、この際の献上品は全て1万石以上に準じたことから乗輿を許されたという。明暦元年(1655年)に大森領内を初めて巡見した。
元禄8年(1693年)12月15日に江戸幕府より高家に列することを許され、従五位下侍従に叙任され、駿河守を兼ねることを許された。それから2年後に68歳で没した。
成人してからも5000石を返還されることは無かったが、その理由は不明である。最上家はその後、明治時代まで旗本として存続することになった。